第5章:竜太、ふたたび(39)

 冷静さを取り戻せば、急に怖くなった。

「フィニッシュ」

 竜太はそう宣言すると、席前で積まれたチップの山を、ディーラーに向けて押し出した。8万ドルを超すチップの山だ。

「カラー・アップ?」

 ディーラーが問う。

「イエス、イエス、イエス」

 勝ち逃げだけが、博奕(ばくち)の極意。

 これを忘れていたのである。

 ここで打ち止められれば、煉瓦数個分の大勝のチャンスはまた必ず訪れるはずだった。

 打ち手は逃げられる。しかし、カジノは逃げられない。

 5万ドルのビスケット1枚に、6本のバナナ(=5000ドル・チップ)。ゴリラ(=1000ドル・チップ)数頭とモンキー(=500ドル・チップ)数匹がついてきた。タイガー(=100ドル・チップ)数頭は、バンカー勝利でのコミッションとして生じたものか。

 バカラ卓の席を立つ竜太を、突如虚脱感が襲った。

 勝利、それも大勝しているのに、なぜだ?

 ビスケット・チップ類をポケットに収めると、竜太はVIPフロアを去る。それらをケイジで現金化しなかった。

 数時間後には、どうせまたここに戻ってくるのである。

 繰り返すが、打ち手は逃げられる。しかし、カジノは逃げられない。

 一歩踏み出すたびに、竜太の上着のポケットの中で、ビスケットとチップがぶつかり合い、じゃらじゃらと派手な音を立てた。

 おまけに、重い。

 でも、こういう事情の重さなら、いくらでも歓迎だ。

 喜んで20キロでも30キロでも、運んでやる。

 竜太は割り当てられたホテルの部屋に向かう。

 飢え死にしそうに腹が減っていたが、ひとまず収穫を部屋の金庫に入れておきたかった。

 新宿歌舞伎町のドブネズミばくち打ちが言うのもなんだか、カジノなんて悪い奴らばかりが居るところだ、と竜太は思う。

 もしそれが額に汗して稼いだカネであれば、とても一手に100万円・200万円と張れるものでもあるまい。

 ホテルのスイートのドアを開けると、人の気配がなかった。

 みゆきは寝室の方で、まだ眠っているのだろうか。

 リヴィング・ルームのクロゼットの奥に、金庫はあった。

 金庫に向かう途中に、コーヒー・テーブルがある。

 コーヒー・カップのソーサーの下に、メモが残されていた。

 自分のことを起こすな、というみゆきのメッセージか。

 メモに眼を通した竜太は、ちょっとした衝撃を受けた。

 竜太くん、ありがとう。
 でも竜太くんと一緒に居ると、神さまがわたしにプレゼントしてくれた大金が、これからどんどんと減っていく気がします。
 ですからみゆきは、一人で旅立ちます。
 どうせ帰りのフライトまで、あと3日しか残っていないし、シドニーを観光して、わたしは日本に戻ります。
 竜太くんと知り合って、とっても楽しい数日間でした。これ以上ない想い出に残る卒業旅行となりました。きっと死ぬまで忘れないと思います。
 大きな四輪駆動なんて、借りる必要なかったね。ごめんなさい。
 日本に戻って気が向いたら、連絡してね。
                みゆき

 んっ、なんじゃこりゃ。

 俺のカネを持ち逃げしたのか?

 でも考えてみれば、そういうことではない。だいたいこの部屋に、竜太はカネなど置いていない。

 竜太がかっぱらってきたチップをカジノで換金し、その労働への正当な報酬で打った博奕(ばくち)で、みゆきが大勝したに過ぎなかった。

 そのカネを持ち帰ることに、竜太は文句のつけようがない。

 見掛けによらず、賢い女だ、と竜太は思う。

 多少の未練は残るにせよ、どうせ行きがかりでかかわった少女だった。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(40)

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。