番外編その5:知られざるジャンケット(4)

 前述したように、政府に指名された有識者たちや、自称「日本で数少ないカジノの専門研究者」ですらよくわかっていない業種のようなので、ここでざっとわたしの理解するところのジャンケットの歴史を振り返ってみようと思う。

 さて、日本で「カジノ仲介業者」と訳される「ジャンケット」とは、いったいいかなるものなのか?

 これを簡単に説明するのは、難しい。

 おまけに時代の推移とともに、ジャンケットの性格やその業務内容も変遷してきた。

 ジャンケットのシステムは、STDM社として知られる澳門旅遊娛樂股份有限公司の総師スタンレー・ホー(Stanley Ho)とそのビジネス・パートナーだったテディ・イップ(Teddy Yip)によって構築された、と言われている。それまでにも似たような業種はあったらしいが、制度として確立させたのは、この二人だったのだろう。

 法的に微妙な点(というか、場合によっては明らかに違法な部分)を含むことが多かったビジネスゆえ、記録・資料の類はきわめて限られている。ジャンケットの起源・出自をはっきりと説明した権威ある学術書は、わたしの知る限りまだ存在していない。

 しかし(自称ではない)カジノ研究者の間で合意されている「ジャンケットの歴史」とは、大雑把にいえば以下のごとくなる。

 1961年12月にマカオにおける賭博独占権を、タイヒン(Tai HeingあるいはTai Hing)社から譲渡されたスタンレー・ホー(Stanley Ho)率いるSTDM社は、大規模な顧客開拓に乗り出した。

 当時、マカオのカジノの客たちのほとんどは、香港からフェリーで来る者か、ないしはマカオの地元民だったのである。

 一人当たりのGDPが日本よりはるかに大きくなった現在からは信じられないかもしれないが、この頃の香港やマカオはとても貧しかった。

 ションベン博奕を打たれて、そこから2%にも満たない、いわゆる「ウイン・レート(Win Rate=数学的にハウス側の収益となるはずのレート)」でシノギをしても、嵩(たか)が知れた商売としかならない。

 つまり、パイが小さかった。

 そこでホーが目をつけたのが、アジアの金持ちたちと共産党政権下の大陸だった。

 じつは当時でも共産党政権下の大陸には、小金持ちたちがそれなりの数存在していたのである。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。