番外編その5:知られざるジャンケット(5)

 当時のアジア諸国のほとんどは、独裁政権ないし軍事独裁政権と、それに結びついた軍産複合体によって牛耳られていた。ただし自国資本育成の原則があるので、海外にカネを持ち出すことは難しい。

 一方、大陸中国では、汚職官僚や党関係者およびそれらとつるんで商売をする産業人たちが、大枚の人民元を握っている。

 しかし、共産党独裁政権下できわめて厳しい為替管理が敷かれていたこともあり、彼ら彼女らには、同じくそのカネを海外に持ち出すことはほぼ不可能だった。

 そこで、ジャンケットの登場だ。

 アジア諸国および大陸の地下に張り巡らされたジャンケット業者のネットワークが、たとえば陳(チャン)さんなら陳さんに100万HKD(香港ドル)のクレジットを与える。

 陳さんは一銭のカネも持ち出すことなく、その100万HKDをバンク・ロールとし、マカオでバカラの札を引いた。
 2004年までのマカオで、大きな博奕(ばくち)を打たせるハコは、スタンレー・ホーの『リスボア(澳門葡京酒店)』しかなかったのだから、そこのジャンケット・ルームだったと考えても、まず間違いではあるまい。

 現にわたしは、「中曽根総理の『裏の金庫番』」などと呼ばれていた前橋のTじいさんと、そこのジャンケット・ルームでバカラの札を引き合ったことがあった。

 話を戻す。陳さんが負ければ、その負債は自国に戻ってから現地通貨でジャンケット業者と清算する。

 勝ったりバンク・ロールが残ったりしたら、それは(多くの場合)香港の銀行に積み立てられた。(望んだら現地通貨でも支払われたそうだ)

 香港の口座に積み立てられた香港ドルとなれば、それはもう陳さんがどう遣おうと勝手だ。

 外為法を無視した、現在の言葉でいえば「マネロン(マネー・ロンダリング)」の一種である。

 地下銀行業務と呼んでも差し支えないこの商売だけで、充分に儲かるのであるが、当時のジャンケット事業者は、じつはもっともっと貪欲だった。

 負け込み、「眼に血が入って」しまった賭博亡者たちに、ジャンケット・ルームでどんどんとカネを貸し出したのである。

 これで、100万HKD(1500万円)のクレジットだった打ち手が、カジノのハコを出るときには、500万HKD(7500万円)だの1000万HKD(1億5000万円)の借金を背負っている。

 わずかな下げ銭(=打ち手がカジノに持ち込む現金のこと)だったのに、ラスヴェガスのハコを出たとき、ハマコーが5億円の借金を背負っていた秘密が、ここにある。もっともハマコーはジャンケット事業者ではなくて、カジノ事業者から直接借りたそうだが。

 以上が、ジャンケットというビジネスの「起源・出自」である、とする説が有力だ。

 お断りしておくが、これはあくまで、「起源・出自」の説明である。

 現在の大手ジャンケット事業者がやっていることではないはずだ。

 ないはずだ、と言うより、やっていてはいけない。

 以降、業務内容も業態もコンプライアンスも変化し洗練されていき、現在では香港証券取引所に上場されているジャンケット事業者が6社もある。(つづく)

⇒続きはこちら 番外編その5:知られざるジャンケット(6)

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。