第6章:振り向けば、ジャンケット(8)

「広東語はこれからだろうけれど、優子さんの北京語は、どれくらい通用しているの?」

 大学で中国語を専攻したからといっても、中国語での意思疎通ではまったく使いものにならない日本の若い連中が多いことは、これまでの経験から良平もよく承知していた。

「なんとか通じていると思いますよ。だめなときには漢字を書く、という奥の手がありますから。ほんとうに漢字は東アジアの共通言語なんだ、と思いました」

 優子が笑った。

 言語習得能力におけるひとつの重要な要素は、「度胸」である。

 優子は、この業界で使いものになるように育ってくれるのかもしれない。

 天馬會のケイジにデパートの紙袋を載せ、300万HKD(約4500万円)分のノンネゴシアブル・チップを引き出した。

 ケイジから出てきたのは、100万HKD(1500万円)の大型ビスケットが3枚のみ。良平は、ビスケット3枚と一緒に差し出された伝票にサインする。

 このジャンケット・フロアで使用される「ノンネゴシアブル(=ベット用の)・チップ」は、少額・多額を問わず長方形や楕円形をしていて、これを業者間では「チップ」とは言わずに「ビスケット」と呼ぶ慣わしだ。

 4500万円の大金が、たった3枚の大型ビスケットに形を変えた。

 毎度のことながら、良平にとっては、やっぱり笑ってしまいそうなバイインの瞬間だった。

 この1枚100万HKDのビスケットを渡された打ち手たちのは、勝負卓でそれをさらに少額のビスケットに換えて(カラー・ダウン)、博奕(ばくち)を打ち始めるのである。

「うちはよく口座を借りる『部屋持ち』業者を変えますよね。先週のお客さんのときには、『萬堂會』のケイジを使っていた。なんでなのですか。いつも同じ業者の方が、いろいろと融通が利くのじゃないか、と思うのですが」

「同じ業者のケイジを使っても、うちにとっては一向にかまわない。ただハウスとジャンケット業者の契約って、けっこう複雑だ。このハウスの『部屋持ち』業者たちには、一か月に何十億HKD分のノンネゴ(=ノンネゴシアブル・チップのこと)の消化が契約上義務づけられている」

「何十億HKD、って。1億HKDで15億円ですよ。その数十倍を一か月で消化する、って」

「『消化』とは、回した金額のことだ。つまり『ローリング』の総額が一か月で300億円とか500億円相当になればいい。ベットではノンネゴを使い、勝てばキャッシュ・チップで付けられる。そうすると勝負卓ではノンネゴの方が減っていき、キャッシュ・チップの方は打ち手の手元に増えていく。通常、VIPフロアじゃキャッシュ・チップでベットができない。それゆえ打ちつづけるつもりなら、手持ちのキャッシュ・チップでノンネゴを再購入する必要が生じるわけだ。その再購入のことを『ローリング』と呼ぶのは、もう学んだよね」

「ええ」

「『部屋持ち』たちは、ハウスとの契約で『ローリング』額が義務づけられることが多い」

「それが一か月で300億円分とか500億円分とかになるのですか?」

 優子の眼がまん丸くなった。

「宮前さんたちの持ち込みは、3人で300万HKD(4500万円)だよ。当たり前なら、これが6回転くらいはするだろ?」

「そうですね。いままでで大きかったお客さんなら、42回転させた方もいらっしゃいましたから」

「勝っていれば、そういうことも起こる。宮前さんたちは、300万HKDで6回のローリングとしても、1800万HKDだ。日本円でいくらになる?」

「2億7000万円です」

「ご名算」

 ジャンケット業者にはとっさの計算能力が必須だ。この点でも、優子は合格であろう。

(つづく)

⇒続きはこちら 第6章:振り向けば、ジャンケット(9)

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。