中学校で習った「右下がりの需要曲線」は現実には存在しない――価格と需要量の真実

なぜ看護師は点耳薬を肛門にさしたのか


 著名な社会心理学者R・B・チャルディーニは名著『影響力の武器』の中で、「直腸の耳痛」という信じられないような事例を紹介しています。

「ある医師が感染症で痛みを訴えている患者の右耳に、耳の薬をさすように指示しました。その医師は処方箋にはっきり『Right ear(右耳)』と書かず、Rightを略して“place in R ear”と書きました。処方箋を受け取った担当の看護師は、耳の薬を指示された通りの滴数だけ患者の肛門にさしたのです。耳痛のために直腸を治療するのが、理屈に合わないことは明らかです。しかし、患者も看護師も異議を唱えませんでした」


 担当看護師が「R ear(右耳)」を「Rear(お尻)」と読んだことから生じた珍現象だそうです。冗談のような話ですが、アメリカの病院で本当に起こったことだそうで、看護師や患者が医師という権威者に一方的に服従する事例とされます。

 だが、みなさん、人のことを笑えません。これと同様のことを、みなさんも知らず知らずのうちに経験しているのです。

「右下がりの需要曲線」は現実には存在しない


 例えば、中学校の公民の教科書で、図1のような右下がりの需要曲線を見たことがあるでしょう。授業では、価格が下がると需要量が増加するという説明を受けたと思います。

図1 需要曲線

 大学の経済原論の教科書ではもう少し専門的に、家計が合理的に行動することを前提として、満足極大仮説によってこの右下がりの曲線が説明されます。商品の価格が下がると、相対的に価格が低い商品に代替しようとする「代替効果」と、価格引き下げにより実質所得が増えるので、その分需要量を増やそうとする「所得効果」の2つの効果が発生するため、商品の需要量が増加します。そのため、「価格が下がると需要量は増加する」という図1のような右下がりの需要曲線が導かれるというわけです。

 これらの一見もっともらしい解説は、多くの経済学部で数式や図解を交えてなされ、学生たちは多くの労力を費やし、この曲線を理解します。この曲線の現実的妥当性なんて考えもしないでしょう。「価格が下がると需要量は増える」という右下がりの需要曲線が世の中に存在すると思い込んでしまうのです。

 しかし、代替効果・所得効果といった経済学的説明は、私たちの実際の購買行動実感とかなりズレていないでしょうか。こんなに論理的に考えて行動している人はほとんどいないでしょう。急いでいる時はとりあえず手にしたものを買う、価格をよく吟味する人・しない人、賞味期限の関係で陳列棚の奥から取る人・取らない人など、消費者の買い回り行動は人によって、また場面・状況によりさまざまです。つまり、このような無差別曲線・合理的行動仮説はあまりにも実情を無視した実験論のようです。

 ただし、経済学の名誉のために申し添えなければならないのは、この需要理論は「他の事情は一定にして」という前提を設けているので、論理的には正しいということになります。もちろん、学生の思考訓練という意味では大切かもしれません。問題は「他の事情」の方が重要な場合が多いかもしれないということを考慮しない点にあります。

価格と需要量の真実


 さて、現実の事例を見てみましょう。食品スーパーではよく集客の目玉商品として、あるブランドの手延素麺の大胆な特売を打つことがあります。

 図2は、東京にある百貨店系列の食品スーパーのPOSデータより作成した、この手延素麺の価格と販売数量の散布図です。定価は360円ですが、「a 358円」はほぼ定価、「b 288円」は2割引き、「c 275円」は約2割4分引き、「d 250円」は約3割引きとなっています。

図2 スーパーの手延素麺の販売価格と販売数量の散布図(100日間)


 さて、この商品の妥当な値づけは、a、b、c、dのどれだと考えられるでしょうか。

 図3に注目ください。まず、「b 288円」という2割引の価格だと、販売数量がかえって減少しています。需要理論の逆の現象が生じているのです。

図3 スーパーの手延素麺の販売価格と販売数量、売上と利益


 この情報だけでは正確なところは分かりませんが、この価格帯では価格が重要な購買動機とならない、競合店の強力な特売でお客を奪われた、悪天候で来店客が減った日が多かったなど、さまざまな要因が考えられます。このように、現実には価格が下がっても需要が反応して販売数量が増えるとは限らないのです。

 「b 288円」は中途半端な値引きで効果がないとして、では「a 358円」(ほぼ定価)と「c 275円」(約2割4分引き)どちらが望ましいでしょうか。

 もし利益よりも売上を優先させる事情があればc、利益優先であればaという判断になります。売上と利益、それぞれどの程度の重要性をもって考えるかは経営判断になると思われます。

 ただし、「d 250円」(約3割引き)という大特売は、粗利すらマイナスとなる、集客のための特別なものです。たまにうつカンフル剤としてならばまだしも、頻繁に行うのは危険でしょう。

 ところで、需要理論が頭にある人は、図2のような図は想像しなかったと思います。同じ価格に対し、販売数量にある程度のバラつきはあるものの、おおむね右下がりの傾向が描き出されると考えたのではないでしょうか。

 しかし、実際に多くの商品で価格・販売数量の散布図を作ると、このような形は少ないのです。需要側・供給側それぞれさまざまな要因から、「価格を下げると販売数量が増える」とは必ずしも言えないのが現実なのです。

 そこで価格の上げ・下げを検討している方々には、予断を持たずに、最新のデータをとり、散布図を作成するなどして判断していただきたいと思います。

【小松秀樹(こまつ・ひでき)】
NPO法人ビュー・コミュニケーションズ副理事長
1950年、秋田県生まれ。東京大学経済学部卒。2000年、通産省の支援を受け、IT技術を活用したビジネスソリューション研究会(上場企業約100社が参加)を母体に、野村総合研究所、日本経済新聞社らと共同でNPO法人ビュー・コミュニケーションズを設立。日本企業の収益を向上させ、国際競争力を上げることを目的に、AIをベースにした我が国独自の最新のIT技術の実用開発・普及に取り組む。2016年より滋賀大学特別招聘講師に就任。最新刊は『なぜあなたの予測は外れるのか――AIが起こすデータサイエンス革命』(育鵬社)。

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