旧石器時代「岩宿遺跡」発見の人間模様(5)――杉原荘介と芹沢長介の確執

岩宿ドームの横に立つ相澤忠洋像。右手台座部分に芹沢長介揮毫の銘文が刻まれている

相澤の発見は学問的にも確認されたが

 相澤忠洋がその後にとった活動と関係者の動きを、箇条書きでまとめてみよう。 ①相澤は、群馬での発掘調査で面識のあった慶応大学の考古学研究者・江坂輝弥(その後、同大名誉教授)宅を訪ねる。 ②そこに明治大学の大学院生・芹沢長介が居合わせていた。芹沢は、学生ながらすでに新進気鋭の考古学研究者として学界で知られていた。 ③相澤は、慶応大の江坂が、群馬で他の発掘グループとの交流もあるため、情報が漏れるのを恐れ、芹沢だけに槍先型尖頭器の話をする。 ④その後、相澤は、これまで発掘した石器を芹沢に見せる。 ⑤芹沢は、その石器の価値(旧石器である可能性)を見抜き、現地を案内して欲しいと依頼する。 ⑥相澤は、芹沢の眼力と人間性を信頼して持参した石器を芹沢に預け、すべてを託すことにする。 ⑦芹沢は、静岡県・登呂遺跡(弥生時代の集落・水田遺跡)で調査主任として発掘調査を行っていた先輩にあたる杉原荘介(当時、明治大学助教授)に、素晴らしい発見があるので早く戻って欲しいとの速達を送る。 ⑧東京に戻った杉原は明治大学の考古学教室で、芹沢立ち合いのもと相澤と面談し、石器を一つひとつ見て、相澤が発見した赤土層を試掘することにする。 ⑨昭和24(1949)年9月11日、相澤忠洋、杉原荘介、芹沢長介らの6名によって試掘が行われ、旧石器時代の存在が学問的にも確認される。 ⑩同年9月19日、杉原は文部省記者クラブで記者会見。

新聞報道された内容とは

⑪翌日9月20日、毎日新聞東京版は二段抜きの見出しで「旧石器の握槌(にぎりつち)群馬県で発見 明大杉原助教授 十万年前と推定」と報道 (引用者注、十万年前は大げさで、現在ではおよそ3万年前とされている)  なお、芹沢の9月18日の日誌の抄録によれば、「杉原さんが明日新聞記者を集めて岩宿発見の発表をするというので、その準備を手伝う、新聞発表のための原稿を見ると、相沢君の功績について何もふれていないので、杉原さんに訂正を申しこみ、相沢君によって発見されたという事実を書いてもらうことにした」と記されているという。(『歴史と旅』1996年6月号、263ページ)  上記、毎日新聞の記事には、「地元のアマチュア考古学者がここで集めた石削のなかに珍しい形のものがあるのを(明大考古学)教室の杉原助教授が発見」と記され、相澤の名前はない。  さて、ノンフィクション作家の上原善広氏の著作に『発掘狂騒史――「岩宿」から「神の手」まで』(新潮文庫、平成29年2月、元本は『石の虚塔――発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』新潮社、平成26年8月)がある。  わが国の考古学界の複雑怪奇な人間模様を、関係者への丹念なインタビューと文書の読み込みというノンフィクションの技法を用いて見事に明らかにした力作である。  この著作によれば、その後、岩宿遺跡は本格的に発掘されていくのだが、「杉原の執筆による岩宿遺跡の報告書には、相澤の名前は出てこない。ただ『相澤忠洋君にわれわれ(明大考古学研究室)の発掘調査についての斡旋の労をとっていただいた』という簡単な謝辞が記されていただけだ」(159ページ)とある。  また、杉原の岩宿の論文には、「芹沢はただ『写真は芹沢長介君が』担当した、とだけしか書かれなかった」(172ページ)と記してある。  さて、その後、明治大学の講師となった芹沢長介は、学説上の違いも合あり、杉原荘介とたもとを分かち東北大学に移り数々の業績をあげていき、杉原との論争では芹沢の正しさが立証されている。

相澤の著書『「岩宿」の発見』はベストセラーに

 また、相澤忠洋は芹沢に恩義を感じ、その後も指導を受けながら発掘活動にいそしむ。相澤が執筆した『「岩宿」の発見――幻の旧石器を求めて』(元本は昭和44年1月、講談社。その後、講談社文庫に)は、ベストセラーになり、この書は昭和44年度の第15回青少年読書感想文課題図書(高校生部門)となった。  その後今日に至るまで、中学校、高校の多くの歴史教科書では、相澤忠洋によって旧石器が発見されたと記されている。もって瞑すべしであろう。  岩宿博物館の初代館長・戸沢充則は、杉原荘介の直系の弟子にあたる。岩宿博物館と相澤忠洋記念館との微妙な距離感は、この点に起因している。  先ほど紹介した上原善広『発掘狂騒史――「岩宿」から「神の手」まで』は、ここでは紹介しきれない考古学界の複雑怪奇な構図を描き出している。  一方で、旧石器時代に関して国立科学博物館の人類学界を中心にした目覚ましい研究もある。  これらの点を踏まえ後日、改めてレポートしたい。(了) (文責=育鵬社編集部M)
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