【連載小説 江上剛】愛人は若いほうがいい。そろそろ潮時なのか……。墓の話題のせいか、麗子はいつになくベッドで冷めていた 【一緒に、墓に入ろう。Vol.6】

メガバンクの常務取締役執行役員にまでのぼりつめた大谷俊哉(62)。これまで、勝ち馬に乗った人生を歩んできたものの、仕事への“情熱”など疾うに失われている。プライベート? それも、妻はもとより、10数年来の愛人・麗子との関係もマンネリ化している。そんな俊哉が、業務で霊園プロジェクトを担当している折、田舎の母の容体が急変したとの知らせを受ける。 順風満帆だった大谷俊哉の人生が、少しずつ狂い始める…… 「墓じまい」をテーマに描く、大人の人生ドラマ――

第一章 俺の面倒は誰が見るの?Vol.6

社用車は麗子のマンションの近くで待機している。 いくらなんでも愛人との逢瀬を楽しむ間、社用車を待たせていたならば、運転手の反感を買い、どんな噂を流されるか分からない。運転手と秘密保持契約を結んでいるなんてことはない。 頭取の木島はどうしているのだろうか。 俊哉は帰宅や接待先との往復の際の都度、社用車を利用するが運転手は絶えず交代する。木島は頭取という立場であるため、彼担当の運転手がいる。木島に愛人がいるのは知っているが、運転手がそのことをバラすことはないだろう。もし頭取が密会し、それに社用車を利用しているなどという情報が漏えいしたならば、真っ先に疑われるのは運転手だからだ。 「あの信号、右ですね」 タクシー運転手が聞く。 「ああ、右に曲がれば道なりだ」 辺りはすっかり暗い。遅くなった。十一時を過ぎている。 口に手を当て息の匂いを嗅ぐ。臭くない。ワインを飲み過ぎたが、大丈夫なようだ。自分の息の匂いを臭いと感じるようになれば、末期的だと聞いたことがあるが……。コートを袖を鼻の近くに運び、匂いを嗅ぐ。麗子の匂いがついていないか、慎重に嗅ぐ。 大丈夫だ。 いつもならこんなことはしない。しかし今夜の麗子はいつもと違っていた。抱くには抱いたが、あまり情熱的ではなかった。墓の話題がよくなかったのだろうか。女性の独身で四〇歳ともなると、終末の話題は、想像以上に切実なものなのかもしれない。 まさか結婚を要求される? そんなことはあるまい。いや、分からない。銀座の店の経営が思わしくないとも言っていたから……。 なんだか煩わしいな。長く付き合い過ぎたか。 潮時という言葉が、再び脳裏に浮かんだ。 愛人は若いのがいい。体も新鮮だし、いつ裏切られるかと思う危機感が自分を若くさせてくれる。しかし一〇年以上も慣れ親しんでしまうと、まるで夫婦同然だ。緊張感も危機感もない。マンネリ。 しかし本気で別れ話でも切りだそうものなら、麗子がどんな行動に出るかしれない。昔の愛人は日陰の女だった。何があろうと絶対に表に出ることはない。こんなことを言うと問題になるだろうが、男にとって都合が良い女、それが愛人だったのだ。愛人の前では、素のままの自分をさらけ出すことができる。 ウソか本当か知らないが、ある大物財界人は、愛人と過ごす部屋をキティちゃんの人形で埋め尽くしているらしい。彼女を抱くとき、キティちゃんの人形にうずもれて、「キティちゃーん」と言って果てると聞いたことがある。バカバカしいと思ったが、その気持ち、わからないではない。そんなことを妻に要求したら、「変態」と罵られて慰謝料を要求されるだろう。その財界人にとっては、キティちゃんが絶対的な癒しの対象だったのだ。それは俊哉にとってのコーンポタージュスープみたいなものだろう。
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六〇歳代の役員、もう一花咲かせるためにもこのまま銀行に残らねば……
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