旧石器時代の研究は複雑怪奇(2)――山内清男の「恫喝」

岩宿遺跡にある「岩宿ドーム」(史跡岩宿遺跡保護観察施設)

旧石器時代を認めたくなかった山内清男

 群馬県赤城山麓の岩宿遺跡は、前述の昭和24(1949)年9月の試し掘りを経て、同年10月から前述の杉原荘介、芹沢長介の主導のもと、明治大学の学生10数名が参加して本調査が行われていた。  そこに「恫喝」をかけてきた人物が山内清男(やまのうち・すがお、1902~1970年)であり、その様子を大塚初重(おおつか・はつしげ、1926生まれ)明治大学名誉教授は次のように記述している。 「本調査中の……宿舎の国瑞寺(こくずいじ)本堂で、私たち十二名の明治大学学生は発掘された石器や剥片(はくへん)の整理作業をしていた。そこへ、一台のオート三輪車が到着し、下車したひとりの男性が本堂のガラス戸を開けた途端、大声で叫んだのである。『明治の学生諸君、こんなものは旧石器じゃない。発掘をやめて帰りたまえ!!』『杉原君いるか!! 芹沢君いるか!!』という。……いきなり失礼なことだと思っていたら、その方が東京大学人類学教室の著名な縄文文化研究者、山内清男先生だった」(『日本列島発掘史』KADOKAWA中経出版、28~29ページ)  失礼というレベルを超えた、学問の自由を否定するかのような振る舞いだ。  この山内は、大正8(1919)年東京帝国大学理学部人類学科選科に進学。この選科は、本科とは異なり規定の学科のうちから一部だけを選んで学ぶ課程で、修了しても学士号は与えられなかったが、戦前の帝国大学にあった制度であり有為な人材を輩出している。

岩宿の発見に対する長老たちの圧力

 山内も、縄文土器の「型式学的分類」に重きをおいた編年(時代区分)の研究を精力的に行い、昭和12(1937)年には縄文時代を早期・前期・中期・後期・晩期の5期に大別した。  戦後になり古い時代の縄文土器が発見されたために、つじつまを合わせる必要が生じたのか、早期の前に草創期を付け加え6期とした。この山内による型式学的分類は当時としては評価に値する研究であったと思うが、例えば草創期と早期と前期といった区分が細かすぎてその違いがよく分からない。前期、中期、後期の3区分で十分なのではないか。  さて、その山内は戦前の学生時代にマルクス主義を信奉しており、当局に目をつけられ親戚のいる鹿児島に逃亡し鍾乳洞へ潜伏したとする逸話を持っている。この種の逸話を持つ人々は、戦前の言論空間でよく戦ったとして戦後、ヒーローのように英雄視される。  その山内の影響を受けたのか、山内と同じく東京帝国大学理学部人類学選科で学び縄文学者となった八幡一郎(やわた・いちろう、1921年入学)、甲野勇(こうの・いさむ、1922年入学)は、戦後、明治大学に考古学教室を創設した後藤守一(ごとう・しゅいち、1888~1960年)に対して、東京都や長野県下でも旧石器が発見された昭和28年頃でさえ、「『後藤さん、杉原君の旧石器など信じてはいけませんよ、晩節をけがしますよ』と繰り返し説得していた」という(前掲書、29ページ)。  相沢忠洋、芹沢長介らとともに旧石器時代の存在を明らかにした杉原荘介であるが、その後、旧石器時代を狭く限定的に捉えるようになったのは、山内、八幡、甲野といったこれら「長老」たちの影響によるのであろうか。  ちなみに一度、旧石器時代の遺跡が見つかるとその後は続々と発見され、日本旧石器学会によれば、その遺跡数は現在、全国で1万を超えている。(【3】に続く) (文責=育鵬社編集部M)
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