旧石器時代の研究は複雑怪奇(3)――芹沢長介と山内清男の激しい論争

芹沢長介著『日本旧石器時代』(岩波新書)に掲載されている山内清男に関する記述

炭素14年代測定法という科学的測定法


 明治大学の後藤守一や杉原荘介、芹沢長介らが、昭和25(1950)年に神奈川県横須賀市夏島(なつしま)貝塚で縄文時代の早期の土器を発掘した。同じ地層にあったカキの貝殻や木炭片を米国ミシガン大学に送り、炭素14年代測定法(C14)の測定の結果、土器は約9000年前のものと判明した。

 この測定法は、一定の速度で崩壊していく炭素14 という元素の量を測ることで古代遺物の年代を測る方法で、米国シカゴ大学のリビー教授によって1940年に発見され、彼はこの功績により1960年にノーベル化学賞を受賞した。

 芹沢長介は昭和34(1959)年、上記のⅭ14という科学的測定結果を基に、その時点で世界最古の土器出現となる約9000 年前に、日本の縄文時代が始まるという年代観を提示したが、この科学的測定法を認めない山内清男との間で激しい論争が生じることとなった。

 山内は、メソポタミアで出現した土器が世界各地に拡散したという考古学者G.チャイルド(1892~1957年、オーストラリア生まれ。その後イギリスで学ぶ。マルクス主義を信奉する考古学者)に代表される一元説に基づき、縄文時代の始まりを約4000年前と考えていた。山内清男は、次のように述べる。

世界最古の縄文土器の出現は「八紘一宇だ!」


(C14による)年代決定は、考古学的な年代決定と違って、各時期の吟味の上に立ったものではない。竜を画かないで点睛すると称しているようなものである。日本では夏島B.C.7000年で問題が生じた……極端なインフレーションである。全く信じ難い。これでは世界史を抹殺するものといわれても仕方がないだろう。……この状態を劇画化して見れば、旧来の八紘一宇(はっこういちう)、日本中心主義は先史時代にまで拡大された。(初出『成城新聞』1964年12月5日「画竜点睛の弁」(下)より)

 9000年前という、山内説より倍以上古い縄文土器が出てきては、自分が積み上げてきた研究成果が台無しになると思ったのであろう。およそ知性がある学者とは思えぬ「八紘一宇」などのレッテルを貼り芹沢長介を攻撃した。

 ちなみに、現在の考古学の世界はある意味で科学捜査に似ている。犯人の遺留品をDNA鑑定するなど、ハイテクを駆使して証拠を積み上げて真実を探求していく。芹沢のスタンスは、予断を排しC14年代測定法などの科学的アプローチにより日本の旧石器時代の真実に迫っていった。

 一方、山内は前述したマルクス主義を信奉する考古学者G.チャイルドの学説と親和性が高かったのであろう。山内は縄文土器の型式学的分類では成果を上げたが、縄文時代や、さらにそれより古い旧石器時代の真実を探求できずに成城大学教授として生涯を終えた。

 さて、芹沢と山内の関係は、学問上の論争というレベルを超え、もはや人間関係の確執としか言いようがない段階に達していた。そのエピソードを、ノンフィクションライター・上原善広氏の力作『発掘狂騒史――「岩宿」から「神の手」まで』(新潮文庫、平成29年2月発行)から紹介したい。

 1962年(昭和37)に開かれた第28回日本考古学協会総会では、大分県の丹生(にゅう/にう)遺跡から出た前期旧石器をめぐって山内と芹沢は激しく対立。学会内に特別委員会を設置して発掘しろと迫る山内に、芹沢は真っ向から反対した。これには理由があった。山内は他の研究者とこの丹生遺跡の取り合いになり、学会では両者がこの遺跡について発表していたため、分裂騒ぎになっていた。功績を焦った山内は、主導権を握るため強引に学会にその混乱を持ち込んだので、芹沢は学会で丹生遺跡を取り上げることに反対したのである。……壇上から降りてきた山内は、かつては自分の弟子だった17歳下の芹沢をにらみつけながら、「この怨みは一生忘れないぞッ」と激しい言葉を投げつけた。そして周囲に「芹沢をどういう方法で殺してやろうか」などと物騒なことを口走ったという。(同書184~185ページ)

 山内の人となりが分かる逸話だ。(【4】に続く)

(文責=育鵬社編集部M)





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