旧石器時代の研究は複雑怪奇(4)――芹沢長介の人柄の良さと捏造という悲劇

相沢忠洋記念館(手前右側に見えるのは、相沢が発見した槍先型尖頭器を相当に拡大したレリーフ)

「地中には人類の未知の歴史が陽の目をみることなく……」

 さて、群馬県赤城山麓の岩宿遺跡に関する博物館は二つある。一つは、発掘された旧石器などを展示する遺跡近くの公設の岩宿博物館(群馬県みどり市)と、そこから北方約7キロ、群馬県桐生市の小高い雑木林の中にある私設の相沢(相澤)忠洋記念館である。  かつて旧石器時代やそれを発見した相沢忠洋を知りたいと思い、岩宿博物館を訪ねたことがある。しかし、相沢忠洋に関する展示が「控えめ過ぎ」で、その業績が印象に残らなかった。そこで相沢忠洋記念館を訪ねることにした。 この記念館は、相沢忠洋の夫人が館長を務め、相沢の業績を顕彰する目的で設置されている。入館するとまず、「太古への夢、岩宿遺跡」(岩波映画社)のVTR(映像)を見せてもらえる。相沢の旧石器発掘にかけた執念、さらに芹沢長介との交流がよく分かる。  映像の良いところは、人物の立ち居振る舞いや会話の様子などから、その人物の性格や人柄を推測できる点にある。芹沢は若い頃に肺結核を患い、人より遅くに明大の考古学に進んだ。そうした苦労人であるため、相沢に語りかける言葉に温かみが感じられた。  日本各地には多くの民間の考古学研究者がいて、彼らの協力なしには旧石器時代や縄文時代の新しい発見や発掘はできない。同時に、民間の研究者は学者に成果を横取りされては、それまでの努力が報われないため、学者の人柄を慎重に見極めアプローチする。相沢の岩宿発見を後押ししたのが芹沢であることを知っている彼らが、芹沢の人柄を慕(した)い集(つど)っていた理由がこのVTRを見てよく分かった。  文章にも、その人柄は表れている。「地中にはまだまだ人類の未知の歴史が、陽の目をみることなく眠っている……」。この一文は、芹沢が著書『日本旧石器時代』(岩波新書、昭和57年)のあとがきに記した文章である。実に味わいのある言葉であり、考古学者としての面目躍如(めんもくやくじょ)を感じさせる。

人柄の良さと脇の甘さ

 しかし、人柄の良さは時として脇の甘さにつながることがある。日本の考古学界を震撼させた「旧石器捏造事件」の主犯である民間の考古学者・藤村新一氏(1950年~)もまた芹沢を慕い集ってきた一人であった。藤村氏は、芹沢の東北大学時代の門下生・岡村道雄氏(文化庁文化財調査官などを歴任)をリーダーとした発掘グループに所属し、次々と旧石器を「発掘」し「神の手」と称されるまでに至り、日本列島の旧石器時代の始まりは60万年前まで遡るという研究の一翼をになった。  だが、これらの発掘は事前に藤村が石器を埋め込んでいたものであり、毎日新聞が平成12(2000)年11月5日にその実態をスクープし捏造であることが判明した。  この捏造を見過ごしてきた日本の旧石器学界の権威は地に落ちた。また、その研究成果を記述していた歴史教科書も訂正を余儀なくされ、さらに、宮城県の座散乱木遺跡(ざざらぎ・いせき)などは、日本列島における前・中期旧石器時代の存在を明らかにした遺跡として平成9(1997)年に文化庁より史跡として指定されていたが、この捏造によって平成14年に指定を解除された。  この捏造事件で、遠因を芹沢長介に求め批判する向きもあるが、それは的を射ていないのではないか。確かに芹沢は民間の考古学者をパートナーとして大事にしたが、藤村氏が「神の手」を発揮していた時期は芹沢の晩年に近い時期であり、芹沢は第一線から身を引き研究を門下生に任せていたからだ。(【5】に続く) (文責=育鵬社編集部M)
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