旧石器時代の研究は複雑怪奇(5)――戸沢充則という考古学者

考古学者・戸沢充則の軌跡という副題がついた『考古学の道標』(新泉社)のカバー

旧石器捏造事件の検証のための委員長になったが

 平成12(2000)年12月に日本考古学協会は、なぜ藤村氏の「暴走」を許してしまったのかの真相を究明するために「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」準備会を設置し、翌13年5月に特別委員会を正式に発足させた。その委員長に就任したのが戸沢充則(とざわ・みつのり、1932~2012)である。  この戸沢は、明治大学文学部考古学専攻を経て同大学教授、考古学博物館長、文学部長、学長(平成8~12年)を歴任した考古学者であるが、なかなかの曲者(くせもの)である。  前出の上原善広著『発掘狂騒史』から、その人となりが分かる記述を引用してみよう。 (戸沢は)政治的な野心家として知られており……その政治的な性格から、毀誉褒貶の激しい人物で、晩年まで一貫した共産党員だったこともあり、学生運動の時代には学生たちの標的にされている。芹沢(長介)が戸沢を忌み嫌うようになったのは、芹沢がまだ明治に在籍していたとき、吹雪の中で小便をかけてまで自ら発見した矢出川遺跡(八ケ岳南麓にあたる長野県野辺山高原、国史跡)の調査報告書を、戸沢が勝手に先に出したからだ。(同書250ページ。( )内は引用者注、以下同じ)  この戸沢は、上記の前・中期旧石器問題調査研究特別委員会での検証結果が出ていないにもかかわらず、平成15年5月で委員長を降りてしまう。その経緯について前掲書『発掘狂騒史』は次のように記述する。  戸沢に代わり、二代目の検証委員長(上記の特別委員会委員長)となった國學院の小林達雄はこう語る。 「委員長が戸沢さんから私に代わったのは、当事者の鎌田(俊昭、元・東北旧石器研究所理事長)くんが戸沢さんの門下生だったので目がくもってしまい、ちゃんと批判できなかったからです。それで私が委員長になることになったのです」(同書313~314ページ)  小林達雄(1937年~)氏は、国学院大学で考古学を専攻し、同大学院博士課程を満期退学、国学院大学教授や縄文時代の展示で定評のある新潟県立歴史博物館の館長を務めたバランス感覚に長けた考古学者である。

墨塗りにされた藤村氏の告白リスト

 確かに、戸沢の検証手法には、大きな批判が寄せられている。あるブログでは、次のように記されている。  独断専行を好む戸沢充則は、教え子の鎌田俊昭のルートを使って、神の手・藤村新一と秘かに面談をはじめた。……藤村新一との面談は、当然、特別委員会で検討されるべきものだろう。特別委員会に「事情聴取部会」をつくれば、藤村新一からもっと綿密な情報が得られた可能性もある。  独断専行した戸沢充則は、藤村が自白をはじめたので狼狽することになる。第三回の面談の後、藤村の主治医から「藤村メモ」が送られてきて、二〇数ヶ所のねつ造遺跡が告白されたのだ。この告白メモの内容が事実かどうかは、当時、不明だった。まだ調査委員会が遺跡を検証中であり、ねつ造は大きく拡大しないと考えていた研究者も多かったのだ。  二〇〇一年九月三日に北海道の総進不動坂遺跡の再発掘検証調査が終わった。……会議では遺跡の評価をめぐり、意見が二つに分かれていた。……  その時、オブザーバーとして出席していた戸沢委員長が発言した。「ここにリストがある。彼(藤村)が告白した過去二年間のねつ造二〇数件が載っている」と言って、クリアファイルに入ったペーパーを頭上に掲げたのだ。調査検討委員会のメンバーは、藤村氏がねつ造を認めていることがわかり、声も出なかった。この「リスト」の存在が、記者会見の内容を「限りなくクロに近い」と踏み込ませることになった。(大地舜氏のブログ「『神の手』に罪は無かった」より)  この藤村メモは、戸沢が22か所に渡り墨塗りを行った。自分や大学の同僚に火の粉が及ぶのを恐れたのか、動機は分からない。こうした検証手法によって、捏造の核心部分は闇に包まれた。(【6】に続く) (文責=育鵬社編集部M)
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