旧石器時代の研究は複雑怪奇(6)――戦前の皇国史観を強調し戦後のマルクス主義史観に言及しない

岩宿博物館のエントランス風景

「皇国史観の枠の中での研究」ではなかった


 日本に旧石器時代が存在したことを初めて証明した群馬県の岩宿遺跡には、それに関連する展示施設が、本連載の4回目で紹介したように岩宿博物館と相沢忠洋記念館の二つある。見学した多くの人が、これが統合されればと思うのだが、それを阻んでいるのが、前回記述した戸沢充則と芹沢長介の確執である。

 戸沢は、杉原荘介の弟子に当たり、岩宿博物館の初代館長となった。一方、岩宿を発見した相沢忠洋は、明治大学の杉原にいいように利用されたという思いを持っており、その後、明治大学から東北大学に移った芹沢に師事した。相沢忠洋記念館の館長は相沢夫人であり、当然のように芹沢に共感する。

 岩宿博物館の館長は代々、明治大学考古学出身者の指定席になっているようだが、現館長は「恩讐の彼方に」を目指し相沢忠洋記念館との交流を模索しているが、しばらく時間がかかるであろう。

 さて、岩宿博物館が発行している『岩宿時代』という「常設展示解説図録」に気になる一文がある。

 第2次世界大戦以前の日本の歴史教育は、「日本書紀」や「古事記」などの神話的古代史の普及が中心で、多くの考古学者も皇国史観の枠の中で研究を続けていた。当然、神代史(じんだいし)より古い人類の存在など、この日本列島において認められるはずはなかった。(上記図録、3ページ。下線部は引用者)

 初代館長・戸沢の「思想」が色濃く反映された一文である。

 まず、本連載の2回目で紹介した山内清男の縄文土器の型式的分類の編年が発表されたのは昭和12年のことであり、山内の場合、当局の監視下にあったかもしれないが、皇国史観の枠の中での研究ではない。いやむしろ、戦後になってもかたくなに旧石器時代を認めようとしなかった皇国史観とは真逆の左派の考古学者、山内をどう評価しているのかと聞きたくなるくらいだ。

 また、維新の元勲、大山巌の息子であり、陸軍少佐であった大山柏(おおやま・かしわ、1889~1969)は、自宅内に「史前研究会(後に大山史前学研究所)」を設け、陸軍大学に勤めるかたわら甲野勇(本連載2回目に登場)らとともに関東地方の縄文土器の編年研究を行い、昭和8年にはほぼ完成させている。

 こうした事例がいくつもあるにもかかわらず、上記の「考古学者も皇国史観の枠の中で研究を続けていた」という記述は正確性に欠けており、バイアス(偏りのある見方)がかかっている。

 確かに、昭和10年の国体明徴運動以降、終戦に至る一時期に皇国史観の風潮が高まったのは事実である。しかし、皇国史観をどうしても言いたいのならば、戦後、一世を風靡した歴史学界のマルクス主義史観(階級闘争史観)の観念論を合わせて紹介しなければバランスを欠く。(【7】に続く

(文責=育鵬社編集部M)




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