中華思想なんてない。日本の視点で捉える中国史!③

北京空港

1959年の開港当時の北京空港

経済の低迷した時時代

 アメリカに次いで、世界第2の経済力を持つに至った中国。政治力も大きく増し、世界一という「中国の夢」の実現に向け、着々と準備を進めている。  しかし、第2次世界大戦が終わって、1949年に中華人民共和国を建国してから、社会主義化へと突き進んだ中国だが、経済的には思うような成果が出ることはなかった。  なかでも、「大躍進」という毛沢東の経済政策の失敗。それを受けて権力闘争の一環として毛沢東によって始められた文化大革命。国家全体の停滞は10年ほどにも及んだ。  西側諸国などが戦後の高度成長期に経済を大きく発展させていくなかで、中国は国内の混乱が長引き、巨大な人口と広い国土を抱えた発展途上国という地位に甘んじていた。  日本も戦争の後遺症もあったうえ、社会主義化した中国との交流は一部に限られており、経済的な結びつきもさることながら、政府や民間レベルでの人的交流も多くはなかった。  それが、鄧小平の時代になってようやく、教条主義から逸脱しても経済発展を重視する方向に路線を転換。経済成長を成し遂げる西側の資本主義国を参考に改革開放路線をきた。  特に鄧小平は、日本を訪問し、日本企業の技術力の高さから、日本との経済交流を拡大させながら、経済力をつけていくことが最善の策であると考えたのだ。それに呼応して日本からも経済界のみならず、政府間交流も活発化し、両国の友好関係が発展していくこととなった。

日本からのODA

 そして、日中国交回復を推進した田中首相が訪中した1979年からは、日本から中国に対してODAとして円借款が行われるようになっていく。  他の国との違いは、日本の援助によって賄われたということを知らせない。だから大規模改修により近代化された北京空港なども、中国人は日本の援助によってなされたものだと知らないのだ。  この日本から中国に渡ったODAは、なんと2013年度まで続けられた。その総額は3兆円を上回るものだ。  初期のころは、貧困、農業、教育などだったものが、2000年以降は、港湾、鉄道、通信などのインフラのプロジエクトに変わっていった。  労働力の安さから、1990年代からは世界の工場として経済発展を見せ、国内消費も拡大していくなかで、中国は徐々に政治的な動きも加速しはじめる。  90年代からはアフリカとの貿易も始まり、2000年以降は中国からアフリアへの経済援助も展開していく。アフリカを押さえるという政治的目的を持ちながら、西側諸国の投資が広がる前に手を打つといった長期戦略だったのだろう。  日本からはODAを受け入れてインフラを整備する一方で、将来を見越してアフリカへの投資(援助)を増やしてきた中国。  日本から中国への援助がつい最近まで続いていたことを、きちんと日本国民に知られることはなかった。外交交渉に長けた中国らしい振る舞いで、したたかという他ない。 参考:『中国と日本がわかる最強の中国史』八幡和郎著
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