中華思想なんてない。日本の視点で捉える中国史!⑤
近代でも中国は大きな経済力があった
近代を除けば、大きな版図があり多数の人口を抱えた中国は、歴史上、ずっと大国だったのは言うまでもない。 その中国に対して、日本は「中国何するものぞ」という対等意識をもってはいた。しかし、古代から中国が大強国で、日本は中国を恐れていたのも間違いない。 歴史上ではずっと大国だった中国だったが、その中国よりも早く、近代化したのが日本だった。 産業革命以降、西欧が工業力を一気に高めたあと、江戸から明治に変わった日本も西欧に追いつくために封建体制から脱皮し、国を挙げて産業化に取り組んでいた。 「眠れる大国」ともいわれた中国は、その時代、世界の状況を見誤り停滞することになったと言われている。 しかし、じつは世界の購買力平価の推計を行ったアンガス・マディソンによると、1870年以降の調査から、世界の中で、中国の経済力が意外と大きかったことを論じている。 ということは、この時代であっても、私たちが思っていた以上の経済力を中国は持っていたということにはなる。 そうはいっても、経済では一足先に近代化の波に乗った日本と、政治的な面で混乱が続く中国。これまで、中国に直接対抗できなかった日本だったが、日清戦争の勝利もあり、歴史上はじめて日本が中国を見下すような立場となっていく。日本への留学生が激増
日本では明治期のあたるこの時代、封建的な中国のなかで、実は多くの中国人が、日本に亡命や留学でやってきていた。 明治の初めころには、すでに2万人以上の中国人留学生が日本にやってきていたらしい。中国も国策として日本への留学を推進していたのだ。 その理由としてあげられるのが、清国と日本の政府の利害の一致だ。戊戌の政変、義和団の乱を始めとする国内の混乱や外国からの侵略で混乱する清政府は、積極的に日本の明治維新を手本にする方針を進めた。そこで、先進国の日本から学ぼうということで留学を増やしたのだろう。 留学生以外では、亡命者も日本は受け入れていた。戊戌の政変の失敗による日本への亡命者孫文は日本で華僑たちと中国革命同盟会を設立する。田中角栄首相と日中共同声明に調印した周恩来も大正期になってだが、日本に留学した。 しかし、対華21か条の要求で、中国の反日感情が高まり、日本の中国人留学生が一気に母国に戻ることになる。これを契機に日本にくる留学生の数が激減したのだ。 この時代に多くの中国人が日本に留学していたということは、現代人にはなかなか想像がつかない。 中国人観光客による爆買いがニュースになって久しいが、韓国ではアメリカのTHAADミサイル配備という高度防衛の予定が動かないことで、一気に中国人観光客が減った。 だが、これも政府の方針を受けたものだった。いずれにせよ、「巨龍」が動くと周りは大きな影響を受けるのだ。 参考:『中国と日本がわかる最強の中国史』八幡和郎著ハッシュタグ
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