日帰りなら4000円! チェルノブイリ立入禁止区域見学ツアーに参加

<文/グレンコ・アンドリー『ウクライナ人だから気づいた日本の危機』連載第5回>

チェルノブイリ立入禁止区域見学ツアーに参加


 筆者は2018年3月11日に、ウクライナ北部のキエフ州にあるチェルノブイリ立入禁止区域の見学に行ってきた。この体験を読者の皆様に共有したい。

チェルノブイリ町の看板と筆者


 なぜか。それはやはり、原子力発電の議論に繋がるからである。自分は原子力について、科学的な知識を持ち合わせていないので、ここでは、私が実際に見たことや聞いてこと、または感じたことをベースに、原子力や国家のエネルギー政策に関する自分の意見を述べたい。

 さて、当然のことではあるが、チェルノブイリ立入禁止区域の見学の準備は旅行業者の検索からはじまった。様々な旅行会社がチェルノブイリツアーをやっているらしい。私はあまりチェルノブイリツアーの事情について知らなかったので適当にインターネットで調べて、引っかかった会社に申し込んだ。偶然ではあったが運よく、ガイドの一人が事故の経緯やその後の歴史や原発問題に詳しい人だったのでとてもよかった。

 ツアーの種類も様々である。基本的な日帰りツアー。詳しい2日ツアー、3日ツアー。興味分野によって特化した個人ツアーもある。例えばチェルノブイリ原子力発電所だけを見学するとか、避難を拒否して、条例を無視して立入禁止区域に住んでいる人と会うツアーとか、他の廃墟となった産業施設見学など。2日ツアー、3日ツアーの場合はチェルノブイリ町のホテルに泊まる。因みに、キエフ中央駅からチェルノブイリ立入禁止区域までシャトルバスで約2時間がかかる。

 私は初めてだったので基本的な日帰りツアーに申請した。日帰りツアーの料金は円に換算するとおおよそ、ウクライナ国籍所有者は4000円、外国人は10000円。旅行会社によって料金は異なるだろうが。2日ツアーは宿泊費を含むので、3倍ぐらい。1年間の観光客数は1万人ぐらいらしい。

 発電所に「チェルノブイリ」の名前が与えられたのは、本当に偶然だった。建設時、あの地域にはもっと大きい町がなかった。当時一番大きかった自治体が、人口約1万人のチェルノブイリ町であった。だからその名前になったそうだ。

爆発した4号機に100メートルの距離まで接近!


 私が参加したツアーは以下の流れで行われた。先ずはチェルノブイリ町を訪れたが、チェルノブイリ悲劇の記念碑以外は特に面白いものはなかった。

悲劇の記念碑


 次にいくつかの廃墟と事故処理に使用されている遠隔操作の車両を見に行った。その次はチェルノブイリ原発事故と関係はないのだが、その地域にあるチェルノブイリ2というソ連時代の軍事基地であった。今は廃墟状態だが、ソ連時代には弾道ミサイルを感知するための超水平線レーダーがあった。アンテナ自体が解体されずに、そのまま放置されている。

 その後は発電所に向かい、従業員用の食堂で昼食を食べた。そんなに美味しくないが、普通に食べられるレベルだった。

 爆発した4号機は2016年に完全に新しい閉じ込め構造物に覆われて、全く見えない。しかし、3号機は4号機と全く同じ姿をしているので、想像できる。4号機から約100メートルの距離まで行った。その後、完全に廃墟となったプリピャチ市に行って、2時間ぐらい廃墟を見ていた。

 帰りに検問所で特別な機械を通って、全身に異常な放射線量がないか測られた。グループは30人だったが全員無事に通過した。ガイドの話によると、ほとんどの人には異常な数値は感知されずに通過しているそうだ。

チェルノブイリ町には数百人の住人がいる


 チェルノブイリ立入禁止区域は発電所から半径約30キロを占めているが、区域は同心円を描いているわけではない。

立ち入り禁止区域


 立入禁止区域に入る時、検問所を通って、警備員に身分証を確認される。完全な事前申込制なので、申し込まないと、仮に身分証を持っていても検問所を通れない。警備員は5、6人見かけた。その半分ぐらいは拳銃だけではなく、ライフルも持っていた。立入禁止区域への不法侵入はよくあるのだが、今までテロや工作活動はなかったらしい。検問所付近でいくつかの写真をとった。検問所や警備員を撮ってはいけないので、その写真はない。

検問所付近


 最初の大きい見学地点はチェルノブイリ町だった。発電所ができる前に、チェルノブイリ町はこの地域の一番大きい町で、人口は約12000人だった。発電所から20キロも離れているが、当時近くにもっと大きい自治体はなかったので、発電所の名前はチェルノブイリ町から取った。

 発電所をこの地域で建設することが決められたのは、その時代にこの地域が当時の基準からしても遅れていたので、地域活性化のためでもあった。チェルノブイリ町付近には資源や産業がないし、土地も豊富ではないので農業も発達しなかった。だから大きな原子力発電所を作るには最適だと思われたらしい。

 皮肉なことに事故の後、チェルノブイリ町は再びこの地域の一番大きい町となった。今の人口は数百人。立入禁止区域内にあるのだが、放射線量が比較的低いらしいので、人の住居が限定的に認められている。居住できるのは、事故前からこの地域に住んでいた人と、立入禁止区域管理局の職員や、その付属の施設の職員。また、立入禁止区域の訪問者のためにチェルノブイリ町にホテルや売店、レストランも営業している。立入禁止区域内で、普通に近い生活ができるのはこのチェルノブイリ町だけである。とはいえ、それでも町の約3分の2の建物は廃墟状態だ。

 チェルノブイリ町には悲劇の記念碑がある。碑の横に、立入禁止区域内にある自治体の名前が載った小さな看板が立っている。188の自治体(ほとんどは小さい村だが)があるので188の看板が立っている。この188自治体のうち、人が住めるのは9自治体だけであり、他は完全廃墟である。

立入禁止区域内にある188の自治体の名前が載った小さな看板が並ぶ。



ずさんなソ連の事故処理


 チェルノブイリ立入禁止区域見学では、チェルノブイリ町を出てから発電所に到着するまでの間に三箇所を見学した。

 まずは事故処理に使われていた遠隔操作車両(ロボットとも言われる)がおいてある場所。人が直接事故処理にかかると確実に死ぬので(実際に死者多数が出ている)、遠隔で処理できる機械が必要であった。ところが事故が起きた時点でソ連に適切な機械がなく、ソ連政府は西側諸国に機械の提供を申請した。

 しかし、申請の時にソ連は実際の放射線量の数値を隠し、現実より低い数値で申請した。それで、西側諸国はソ連からもらった数値に基づいて、それに耐えるロボットを提供した。

 当然、実際の放射線量はもっと高かったので、提供された機械はその量に耐えられずに壊れてしまった。

 だからソ連は、急いで別の機械の開発に取り掛かったのだが、それは新しい機械を作ったのではなく、前からあった機械を改造して、コードで遠隔操作ができるようにした。

 写真に写っている車両はまだ汚染度が低く、人が近づいても大丈夫なのだが、同じような車両で除染不可能なレベルまで被爆した機械は沢山あって、その機械は全てチェルノブイリ立入禁止区域内にある幾つかの廃棄物埋設地に埋め立てられている。

遠隔操作車両


 次に廃墟となった村の幼稚園を訪れた。事故の後、建物の除染作業が大々的に行われたのだが、煉瓦やコンクリートでできた建物なら、ある程度、特別の洗剤で壁を洗うことができたらしいが、木造の建物は、放射能が木の中に入ってしまうので、ほとんど除染できなかったという。だから汚染地域にあった木造の建物は殆ど壊されて、その木片も全部廃棄物埋設地に埋め立てられている。

ソ連時代の秘密軍事基地「チェルノブイリ2」


 そして、発電所に到着する前の最後の地点だったのが、「チェルノブイリ2」というソ連時代の秘密軍事基地。その基地には超水平線レーダーがあり、その役割はアメリカの弾道ミサイルを発射時点で感知することであった。

ソ連時代の秘密軍事基地「チェルノブイリ2」にある超水平線レーダー


 この軍事基地をソ連は非常に重要視しており、その存在は極秘であった。地域の住民はその基地の存在すら知らず、そこに所属していた一般兵士も、その本当の役割を知らなかったらしい。本当の目的を知っていたのは基地の幹部だけであった。

 その基地は森で囲まれており、周りにアンテナが見えないように高い松が植えられた。また、迷った人が偶然入らないように、松の間にとげの多い茨も植えられた。その基地に向かう唯一の車道も、遠くから見えないように、真っすぐではなく曲がっていて、数十メートル先までしか見えないように作ってある。

 一説によるとチェルノブイリ原子力発電所は、この基地に電気を供給する目的で建設されたといわれている。つまりこの基地がメインで、原子力発電所のような大事業はそのサポート施設ということだが、あくまで説なので、本当はどっちがメインだったか断言できない。

【グレンコ・アンドリー】
1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。





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