鎌倉の大仏は芸術作品である(その2)

鎌倉大仏と紅葉(縮小)

鎌倉大仏と紅葉

特徴は、生きている表情

 歌人・与謝野晶子(1878~1942年)が、『鎌倉大仏』坐像を詠んだ句があります。  《鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな》  ここにある「美男におわす」には深い意味があります。それは、そのままの美形という意味ではなく、生き生きとしているという意味なのです。角張った、平面的な面相ですが、理知的で、細く切れ長の目、少しふくらんだ上まぶた、弓なりの眉は太い鼻梁に深く続いており、眉目秀麗と言っていでしょう。それが単に形式的に表されているのではなく。生きているのです。  『鎌倉大仏』坐像の像高は約11.31メートル(台座を含めると13.35メートル)もあります。猫背気味の姿勢で、体部に比して頭部が大きい容姿です。しかし衣文は量感があり、深く鋭い彫りで巧みにまとめられています。低い肉髻(頭髪部の椀状の盛り上がり)は、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しています。浄士教信仰に基づく『阿弥陀』像は「来迎印」(右手を挙げ、左手を下げる)を結んでいる姿が多く見られるのに対し、本像は、膝上で両手を組む「定印」を結んでおり、真言ないし、天台系の信仰に基づく『阿弥陀』像であることが分かります。

歴史書から読み解く『鎌倉大仏』坐像

 鎌倉時代に成立した日本の歴史書である『吾妻鏡』には、暦仁元(1238)年、深沢の地(現・大仏の所在地)で僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元(1243)年に開眼供養が行われたという、記述があります。また、同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3(1242)年に完成前の大仏殿を訪れ、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記しています。  そして「吾妻鏡」には、建長4(1252)年から「深沢里」で金銅八丈の『釈迦如来』像の造立が開始されたとの記述もされました。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈されるので、1252年から造立開始された大仏が、現存する鎌倉大仏だったのでしょう。  以上が定説です。ただし、木造の大仏が銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説があります。寺伝によれば、作者は上総国(現在の千葉県中部)の鋳工であった大野五郎右衛門と伝えており、鋳造した工匠には丹治久友の名が上がっています。  丹治久友は関西から来た鋳工で、奈良県士吉野山の金峯山寺藏王堂の鐘銘に「大工鎌倉新大仏鋳物師」とあったとされ、奈良や関東の寺の鐘を鋳造していた記録も残っています。ですから、大野―丹治との合作と考えていいでしょう。  いずれにせよ、奈良の大仏を造ってから500年が経ち、新たな都市の鎌倉にふさわしい大仏を造ろうと幕府も力を入れたに違いありません。この大仏に関する史料が少ないからと言って、『鎌倉大仏』坐像の重要性を蔑ろにしてはなりません。明応4年に津波のために大仏殿が損壊し、今のように露坐になったそうですが、像にとっては良くありません。しかし、露坐もすでに5世紀以上が経ち、歴史的なものなので、このままでも構わないと思います。  これを機会に、鎌倉大仏を中心にして、世界文化遺産に再び立候補するべきだと思います。 (出典=田中英道・著『日本の美仏50選』育鵬社)  田中英道(たなか・ひでみち)  昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める。著書に『日本美術全史』(講談社)、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『世界文化遺産から読み解く世界史』『日本の宗教 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本の美仏50選』『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』『日本国史――世界最古の国の新しい物語』(いずれも育鵬社)などがある。
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