緊迫するウクライナ情勢に関する日本人の四つの誤解(前編)

<文/グレンコ・アンドリー『ウクライナ人だから気づいた日本の危機』連載第11回>

緊迫するウクライナ情勢――海上でロシアと衝突

11月25日のウクライナ船拿捕の際、ロシア沿岸警備艦から撮影された映像(BBC News Japanチャンネルより)

 11月25日、クリミア半島近海で、ロシア連邦保安局(FSB)の監視船がウクライナ海軍の艦船に発砲し、ウクライナの曳航艇に衝突、この曳航艇と2隻の小型砲艦を拿捕した。ウクライナ海軍は乗組員6人がけがをしたと非難した。ロシア側もウクライナ側が領海を侵犯したと非難している。  ウクライナ議会は翌26日に戒厳令の発令を可決し、30日にはポロシェンコ大統領が、自国内でのロシアによる「民兵組織の結成」を阻止するため、ロシアの16~60歳の男性の入国を禁止すると発表した。

ウクライナ情勢に関する四つの誤解

 日本に住んでみて初めて分かったのだが、ウクライナ情勢について、日本のマスコミは断片的な事実しか報道せず、全体像がまったく見えていない。また、テレビや新聞、論壇誌などに登場する日本の言論人の見解も、知識不足だからなのか、ウクライナで起きていることについて完全に間違った解釈を加えている。そのため、ウクライナで起きていることについて、多くの日本人は誤解している。その誤解の中で、最も代表的なのは以下のようなものである。 ①ウクライナで民主的に選ばれた政権が違法クーデターで倒された。 ②ウクライナの反政府デモは西洋(若しくは国際金融資本)が首謀した。 ③ウクライナで親露派対親欧米派の対立が起きている。 ④ウクライナの状況でロシアに脅威があったからプーチンは介入せざるを得なかった。  他にもいろいろあるが、この四つは最もよく聞くウクライナに関する誤解である。さて、本稿では2013年後半から現在までのウクライナの出来事を説明し、これらの誤解を解くことにする。

EUとの協力協定交渉に対するロシアの反発

 2013年夏の時点で、当時のウクライナ政権はEU(欧州連合)との協力協定を結ぶ交渉をしていた。協定の趣旨は、ウクライナとEUが自由貿易圏を形成すること、またEUによるウクライナへの経済支援の拡大も重要な事項であった。国民の大多数や野党も当然この協力協定締結を支持していた。  当時のヤヌコビッチ政権は売国政権だったのだが、それにもかかわらず、なぜ自国の国益に適う協力協定を結ぼうとしたのか。理由は簡単だ。それは、売国政権といっても、信念でウクライナを滅ぼしたい売国奴ではなく、単に私腹を肥やしたい強欲な連中だったからだ。  彼らにとっては、ロシアから金をもらえばウクライナを売り渡すが、他の方法で富を貪ることができるならそれでもよかった。EUとの協力協定を結べばウクライナが潤うので、自分たちがウクライナの国家予算から盗める金も増える。そのような単純な理屈で彼らは協定を結ぶ交渉をしていた。  しかし、ロシアはこの協定締結に猛反発し、当時の政権に非常に強い圧力をかけた。ヤヌコビッチ政権は、一時はロシアをなだめようとして、協力協定と同時に、ロシアとの関税同盟に入ることを提案した。しかし、ロシアはその代替案も受け入れず、ロシアとの関税同盟だけへの参加をウクライナに対して求めた。  数カ月の交渉の結果、最終的にヤヌコビッチ政権はロシアの圧力に屈して、11月21日にEUとの協力協定の締結を諦めた。ウクライナ政府の口実は、協定締結はウクライナ経済に打撃を与えるということだった。  だが、もちろん本当の理由はロシアの圧力に屈したためであった。実際、それまで、ウクライナ政府は何度も協力協定がウクライナの経済成長を促すと言っていたのだ。

政権批判デモが暴徒化

 協定締結が中止されたことに対して、ウクライナの首都キエフでは協定締結を要求するデモが起きた。最初のデモは非常に平和的であり、その要求はあくまで協力協定の締結であり、政治的な要求はほとんどなかった。  デモの規模は1日平均2、3万人、最大約8万人である。日本人の感覚だと8万人のデモは非常に大きい数だが、デモがよく起きているウクライナにおいては、8万人ほどのデモは普通の規模で、政府が脅威を感じるほどの数ではない。また21日から始まったデモの勢いは次第に減っていく傾向にあった。このまま行けば、恐らく協力協定が結ばれないまま、デモは終わったであろう。  しかし、状況を一変させたのは、政府による暴行と売国行為であった。11月30日の未明、キエフ中心広場にある「独立広場」で、テントを張った居座りデモの参加者達が治安部隊によって強制排除された。その際、抵抗していなかったデモ参加者に対して、まったく不要な過剰暴力が振るわれ、大量に負傷者が出た。  そのデモキャンプを排除する必要はまったくなかったのだ。町の秩序を乱すことなく、単に意思表示をしていただけだったのだから。だが、このような政権の暴行に対して、デモの性質が一変した。それまでは、あくまで協力協定締結を求めていたデモであったが、政府の過剰暴力の後、それは内閣の辞職や暴力責任者の逮捕に変わった。  キャンプが強制排除された翌日、キエフ中心地に50万人以上といった、想像を絶する数のデモ行進が起きた。本当に人の海であった。国民の多くはこの理不尽で無意味な暴力に対して激怒していた。大規模なデモは二週間続いた。

ロシアとの関税同盟を約束

 12月17日、政権はとんでもない売国行為をした。当時のウクライナ大統領のヤヌコビッチがロシアでプーチンと会って、ロシアがウクライナへ150億ドルを貸してガス代を下げる代わりに、ウクライナはEUとの協力協定をやめて、ロシアとの関税同盟に入ることを事実上約束したのだ。ロシアとの関税同盟の約束は、本当に最悪の売国行為である。それは関税自主権を失うことであり、いずれ主権そのものを失うことにつながる行為であった。  関税同盟には本来4カ国の参加予定であった。ロシア、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシである。しかし、関税同盟のルールを決めるとき、票は一国一票ではなく、票の重さはGDPに比例するということであった。言うまでもないが、ロシアのGDPは他の3カ国の合計額より上である。仮に他の3カ国が反対しても、ロシア1票の賛成でルールが決まるのだ。つまり、すべてのルールをロシアが決めて、他の国はそれに従うだけの同盟だった。  しかも、この関税同盟のルールでは、対外関税率を統一しなければならないのだ。つまり、ウクライナが他国から物を輸入する時に、関税率は必ずロシアと同じ数字にしなければならないということである。このような、ウクライナの独立を損なう組織に参加するわけにはいかなかった。

デモの激化と政権の暴挙

 この売国行為に対して、デモはさらに勢いを増した。中央広場だけでなく、各地においてデモ行進や居座り、デモ隊による建物の占拠が始まった。そして、デモ要求は大統領解任と政権交代になった。もちろん政権は野党リーダーと会っても、全く譲歩しなかった。またデモ参加者に対する暴行や逮捕も頻繁にあった。野党ジャーナリストも暴行を受け、負傷したことも何度もあった。  翌月の1月16日に政権は、集会の自由やデモ活動を厳しく制限する一連の法律を国会で通した。例えば以下のことが決定された。 ◎自動車は5台以上並んで道路を走ってはいけない。 ◎登録されていないメディアは放送活動をしてはいけない。もし活動すれば、罰金や機材没収。 ◎行政に許可されないデモを起したら逮捕。 ◎ヘルメットを被ったり、マスクをしたりなどして集会に参加してはいけない。顔を隠れて参加したら逮捕。 ◎許可なしでテントを張ったら逮捕。  このような一連の法律は、当時全国で起きていたデモを非合法化することが目的であった。しかし、ウクライナ国民はこれに怯むどころか、反政府運動はさらに勢いを増した。  ちなみにこの一連の法律はひどい内容だが、この法案の成立の経緯はもっとひどかった。この一連の法案は、国会における手続きを踏まえずに成立した。委員会における審査を経ずに、いきなり本会議に入った。国会答弁もなく、直ぐに投票ということになった。しかも国会議員には法案の本文も配布されず、議員は法案の内容も分からずに投票しなければならなかった。  議決の方法そのものも暴挙であった。ウクライナの法律上、法案は出席者の過半数ではなく、議員総数の過半数の賛成で成立する。しかし、その日、与党議員の多くは国会に来なかった。そのため、与党はその日に総数の過半数を持っていなかった。だから本来、この日は与党がどの法案でも採決できなかったのだ。  そこで議長が投票の方法を変えた。普段ウクライナ国会ではボタンを押すことによって投票が行われるが、その日は投票方法を挙手による投票に変更したのだ。そしてその一連の法案は、次から次へ投票にかけられた。  その時の光景は本当にシュールであった。議員が手を上げる、その次の瞬間に、議長の横にいた票を数える担当者はすぐ数を発表した。彼は挙手の数を数えなかった。手が上がるとすぐに予め決まった票数、「235票賛成」を言うのだ。そしてこの茶番が生中継で全国に放送された。つまり国民の多くは、政権が議会民主主義を踏み躙るという犯罪を起している瞬間をリアルタイムで目撃したのだ。

全国規模の反政府運動へ発展

 以上のような政権の振る舞いに対して、国民の怒りは頂点に達した。反政権デモは全国規模の幅広い反政府運動に進化した。デモ隊はウクライナ各地で州庁や市役所などを占拠し始めて、一部の自治体の地方議会は、現政権の正当性を認めないという決議をした。  キエフの中心部ではデモ隊と治安部隊の衝突が始まった。国会野党の指導者達はそれまで、デモ隊になるべく平和的な行動を取り、政権に弾圧の口実を与えないようにと呼びかけて、抑えていた。  しかし、もはやデモ隊の我慢は限界に達した。指導者の制御が利かなくなり、デモ隊は行動に出た。衝突は1月19日から始まった。21日に治安部隊が実弾を撃ち始めて、デモ隊に最初の死者が出た。  ちなみに政府がデモ隊に対して送り込んだのは治安部隊だけではなく、雇われた民間人であった。雇われた民間人の集団がキエフをうろついて、中心地から離れたデモ参加者に暴力を振るっていたのだ。  対立は次第に激しくなっていたが、それでもヤヌコビッチ政権は妥協しようとせず、死者が出ても、自分の意思を押し通そうとしていた。治安部隊に捕まったデモ参加者は次々に投獄された。そして、捕まったデモ参加者に対して暴力を振るったり、唾をはいたり、服を脱がしたりなど、酷い扱いをした。  全国的に激しい対立が続いている中、政権側は一度、妥協の余地があると発表して、野党リーダーとの再交渉を要請した。しかし、それはデモ隊を油断させるための見せかけだった。  2月18日、再交渉が続いている最中、今は治安部隊は攻撃してこないだろうと安心していたデモ隊に対して、治安部隊は総攻撃を始めたのだ。銃撃戦が起こり、キエフ中心の「独立広場」は本当に火の海の状態になった。治安部隊の攻撃で30人以上のデモ参加者が死亡した。  同じ日に、治安部隊はデモ隊が占拠していた建物の一つを放火した。その火事で数十人のデモ参加者が亡くなった。しかし、その日は治安部隊は完全にデモ隊を排除できなかった。  翌日、地方からデモ隊に大きな増援が来た。しかし大きな戦闘はなかった。治安部隊は再攻撃の準備をしていた。しかし、その次の日の20日、治安部隊に対する攻撃命令はなかったが、独立広場の周りにある高層ビルに狙撃者が登って、広場にいたデモ参加者に対して無差別射殺を実行したのだ。その時、約80人が殺害された。ヤヌコビッチ大統領は自国民の無差別射殺を命令したのだ。  この3日間、18日~20日の間に、現政権はいかにひどいか、多くの人が理解した。与党側の人間でも、一部は与党から離脱し始めた。また、各省庁の官僚や地方役人もこの政権をこれ以上存続させるわけにはいかないと思い、次第に反政府運動側に転じた。

ヤヌコビッチ大統領が国外へ逃亡

 権力の基盤を失った政権は崩れ始め、治安部隊もキエフ中心部から撤退した。 21日に大統領と野党リーダーの交渉で大統領権限の制限が合意された。しかし、同胞を100人以上失ったデモ隊はこの合意に反発し、大統領の退任を要求した。  翌22日、自国民を殺したことに対する報復を恐れた大統領は、キエフから逃亡した。最初は東ウクライナのハルキウ、その次はクリミア半島、そこからロシアへ逃げた。  ここで重要なのは、ウクライナでは「クーデターは起きていない」ということである。日本の一部の“自称”評論家達が、ウクライナで違法クーデターが起きたから、新政権は正当性がないと知ったかぶって言い放っていたが、これは無知の極みである。  そもそも、仮にクーデターを起きたとしても、自国を外国に売ろうとして、自国民を大量に殺している政権を、力を利用してでも倒すのは責任ある愛国者の権利であり、義務である。だから仮にあの状態でクーデターが起きていても、それは何も悪いことではない。  しかし、事実としてクーデターは起きていない。デモ隊は大統領府にも、大統領の私邸にも侵入していないからだ。ヤヌコビッチは、正当な裁きを恐れて自分の意思で逃亡したのだ。  そして逃亡した後、国会決議で、大統領が責務放棄をしたという理由で彼は解任されたのだ。同日、大統領と同じように逃亡した国会議長の代わりに、野党からの新議長が選ばれた。  ウクライナ憲法の条文によって、大統領が不在の場合、国会議長が大統領代行を勤める。つまり、新議長は大統領代行に就任したことによって、憲法の手続きに則って政権交代が起きた。同時に、同年5月25日に大統領選挙の実施が定められた。(後編へ続く) 【グレンコ・アンドリー】 1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択 平成30年10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択 平成30年10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
おすすめ記事
おすすめ記事