朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第9講:中国従属の道を選んだ李成桂」

鄭夢周の文集(ソウル中央博物館、著者撮影)

鄭夢周の文集(ソウル中央博物館、著者撮影)

北朝鮮の拉致・核問題の暴虐、韓国の執拗な反日政治、これらの異常さというのはいったい、どこから来るものなのか。著作家の宇山卓栄氏はその答えを、朝鮮特有の「歴史的隷属」に見出す。朝鮮半島は一時期を除き、約2000年間、中国の属国だった。中国への隷属は朝鮮人の心を蝕み、我々、日本人には考えられないような「精神の卑屈」を招いた、と宇山氏は説く。

野心家・李成桂

 親元派と親明派の対立を利用して、台頭の機会を窺っていたのが野心家の李成桂(イ・ソンゲ)でした。李成桂は崔瑩の引き立てにより、出世した将軍でしたが、最終的に崔瑩を裏切ります。  李成桂は当初、態度を明確にせず、崔瑩に従っていました。しかし、内心では現実的な親明路線に共感しました。  李成桂は親明派の文人官僚や学者を取り込み、他の武人たちよりも優位な立場を得ようとしました。特に、鄭夢周は李成桂を高く評価し、親交を深めていました。  明は1388年、高麗領である鉄嶺(現在の中国遼寧省)以北の割譲を一方的に通告してきました。高麗は元王朝の混乱に乗じて、遼寧の一部を奪っていました。高麗王が明の通告に激怒し、一気に風向きが崔瑩ら親元派優位に傾きました。  高麗王は明に対抗するため、直ちに遼東地域に軍を派遣しました。この軍の指揮官に任命されたのが李成桂でした。  李成桂は遠征に反対していましたが、彼は戦に強く、崔瑩からの信頼も厚く、指揮官を任されたのです。しかし、このことが崔瑩の命取りになります。

李成桂のクーデター

 李成桂は1388年5月、約三万八千人の遠征軍を率いて、現在の北朝鮮と中国の国境を流れる鴨緑江河口の威化島(ウィファド)に到達しました。  この河を渡れば、明軍と直接対決することになります。李成桂は明軍と戦っても勝ち目のないことはわかっていたので、河を渡り、死地に入ろうとはしませんでした。  雨季で河が増水し、渡れなかったこともあり、軍の士気は下がる一方でした。李成桂は国王に宛てて、撤退の申し出を何度もしていますが認められず、進むことも退くこともできない状況に陥ります。  ここで、李成桂はクーデターを起こすことを決断。軍を引き返し、高麗の都の開京(開城)に攻め上ります。これを「威化島回軍」といいます。  開京を占領した李成桂は国王を廃位処刑、崔瑩も処刑しました。李成桂は恩義のある崔瑩を殺したことに良心が痛んだらしく、自らが編纂を命じた『高麗史』の中で、崔瑩を讃えています。  既に高麗王朝は民心を失っていました。飢餓が蔓延し、人々は新しい世の中の到来を期待しながら、李成桂たちの「威化島回軍」を歓呼の声で迎えました。 宇山卓栄(うやま たくえい) 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。
おすすめ記事
おすすめ記事