ウクライナは世界第三位の核兵器保有国の地位をなぜ放棄したのか

<文/グレンコ・アンドリー『ウクライナ人だから気づいた日本の危機』連載第16回>

ソ連崩壊で世界第三位の核兵器保有国に

中国に売却されたウクライナの航空母艦ヴァリャーグ:ソ連崩壊後、ウクライナ海軍に編入されたが、未完のまま中国へ売却され、「遼寧」となった。

 ソ連崩壊後、ウクライナはソ連から強い軍隊を受け継いだ。もちろん、ソ連がウクライナのために大軍を置いていったわけではない。ソ連の軍事戦略上、最も重要であったヨーロッパ方面に位置するウクライナには、大きな軍隊を駐屯させておく必要があった。そしてソ連政府は、ウクライナをソ連の不可分の一部として認識しており、そのウクライナがいつか独立するなど、まったく想定しなかった。  そのようなウクライナは永遠にソ連の一部であり続けるという前提で置かれた軍隊は、ある日突然、ウクライナの意思と関係なく、ソ連の崩壊によってウクライナに受け継がれた。  偶然だったとは言え、独立した時点でウクライナがその強い大軍を所有していたのは紛れもない事実だ。ではその後、ウクライナがタナボタ的に得た強い軍隊は、いったいどうなったのか、これから述べることにする。  さて、ウクライナが1991年末にソ連から独立した時点で、ウクライナ軍は次のような編成であった。  兵士780万人、戦車6500輌、戦闘車両7000輌、大砲7200門、軍艦500隻、軍用機1100機 そして1240発の核弾頭と176発の大陸間弾道ミサイルという、当時世界第三位の規模の核兵器も保有していた。

米露による核兵器放棄の圧力

 しかし、独立してから大規模な軍縮が始まった。核兵器に関して言えば、当時、米露から核兵器を放棄するようにという、脅迫に限りなく近い非常に強い圧力がかかっていた。もしこの要求に応じなければ、経済制裁や国際社会からの追放、最悪の場合は軍事行動という仕打ちが待っていただろう。経済危機やハイパーインフレに苦しんでいたウクライナはこの圧力に抵抗する力がなかった。  しかし、核兵器を手放すことはやむを得なかったにしても、当時のウクライナの指導者の姿勢は、国益護持から程遠いものだった。ウクライナの指導者達は外国の要求をすべて呑み、無条件に3年間ですべての核兵器を放棄するという決断を下してしまったのである。  その見返りとして、「米英露はウクライナの領土的統一と国境の不可侵を保証する」という内容の議定書だけを発表した。  だが、議定書は国際条約ではないので、それを守る法的義務はない。実際の国際関係では、法的拘束力のある国際条約ですら守られていないことが多いという事実を踏まえれば、最初から法的拘束力のない「議定書」などが守られるはずはない。  もし、当時のウクライナ指導者たちが国防の重要性を認識していたのであれば、要求通りの無条件放棄ではなく、例えば、核兵器を放棄する代わりに経済支援か、最新の通常兵器提供、もしくは急な放棄ではなく長年にわたる段階的な核兵器の処分、あるいはせめて法的拘束力のある国際条約の締結などを代わりに求められただろうし、またそうすべきであっただろう。  ちなみに、核弾頭や弾道ミサイルそのものだけではなく、それを格納、発射するためのインフラ、施設もことごとく破壊された。例えばウクライナ国内にあったミサイルサイロも全部破壊された(ロケット博物館という場所で、一つのサイロは残っているのだが、もちろん形だけ)。当然、核兵器そのものがなければ、ミサイルサイロなどの施設は無力であるが、それがあるだけで、ある程度の抑止力にはなっていたはずだ。だからせめて施設だけでも残すべきだったと私は思う。  さらに言えば、外圧が理由となっていた核兵器の放棄とは異なり、通常兵器の縮小は完全にウクライナ独自の判断によるものだった。軍縮の主たる理由は経済危機、つまり大きな軍隊を維持する資金をウクライナが持っていないと言われているが、例えひどい経済危機があろうとも、ウクライナにおける軍縮、軍事軽視の規模は想像を絶するものであった。  例えば(核兵器ではない)ミサイル防衛で言えば、ウクライナはR-17という戦域戦術ミサイル兵器(射程距離300キロ)を持っていたがすべて処分された。また戦域戦術ミサイル兵器のトーチカ(射程距離120キロ)を数十輌持っていたが、それは12輌まで減らされた。

ミサイル発射演習事故に対する国民の嫌悪感

 ところで、2000年にウクライナ軍がミサイル発射の演習を行った時、事故が起こった。一つのミサイルが想定されていた弾道から外れ、民間マンションに着弾したのだ。幸い死者はいなかったが、その事故に関する情報はすぐ全国に広まった。そしてウクライナ国内世論は、軍に対して非常に批判的になった。  このような事故が起きてしまったことに対して、批判の声が上がるのは当然なことであり、批判それ自体はまったく問題ない。しかし、その批判の内容や軍に対する世論は、その後、おかしい方向に進んでしまった。  普通このような事故が起きたら、軍人の能力や兵器の状態(正常か、不具合か)が問われる。つまり人のミスであれば、責任者の解任や軍人の能力強化が要求される。兵器の不具合によるものであれば、その修理や新しい兵器の導入が世論によって要求されるはずである。言い換えれば、軍の質の改善が国民によって要求されて当然な状況なのだ。  しかし、あの事故が起きた後のウクライナ世論の反応は、そのようなものではなかった。世論の反応は、「軍人が無能で国民を危険にさらすなら、こんな軍はいらない」「民家に当たるかもしれないミサイルを飛ばすな」などといった、軍そのものを否定するようなものであった。  ただでさえ大規模な軍縮が行われ、絶望的に足りない予算でやりくりをしなければならなかった軍隊は、さらに窮屈な立場に置かれ、それ以降は軍事演習もまともにできなくなった。

戦略爆撃機も処分

 他に特に注目すべきなのは、戦略爆撃機の処分だ。独立した時点でウクライナは25機のTu-95と19機のTu-160を所有していた。この戦略爆撃機の航続距離は14000キロメートルであり、主な目的は敵の防空線を通り越して、敵地の奥にあるインフラや軍事施設、産業などを破壊することであった。もちろん、核爆弾も通常爆弾も搭載可能である。このような兵器を持つだけで、かなりの抑止力があるはずだ。  しかし、ウクライナはこの44機の戦略爆撃機をすべて処分した。8機のTu-160と3機のTu-95はロシアに売却され、他はウクライナで解体された。両機の1機ずつはウクライナのポルタワ市の長距離航空機博物館に展示されている。また、中距離重爆撃機のTu-22とTu-22M(航続距離、約3000キロメートル)も合わせて66機もあったが、それらもすべてロシアに売却されたか、解体された。  その他にも、独立した時点でウクライナ空軍は約600機の古いソ連製の戦闘機や爆撃機と、当時にしたらまだ新しい戦闘機MiG-29は220機、Su-27は67機と、爆撃機Su-24は150機もあった。しかし、2013年の時点に残ったのは、MiG-29は72機、Su-27は55機、Su-24は24機のみである。他の航空機(約600機の旧世代のものを含めて)はアジアやアフリカの発展途上国に売却されたか、解体されたのだ。

航空巡洋艦ヴァリャーグは中国に売却

 ウクライナ海軍は独立してから連綿と政府から放置されており、衰退する一方だった。1991年末時点のソ連黒海艦隊は525隻からなっていた。そして、ソ連解体の時点で、黒海艦隊の幹部の多くはウクライナへ忠誠を誓おうと思っていた。しかし、当時のウクライナ政府は強い海軍の形成に興味がなかったので、せっかくの黒海艦隊の将校達の意思を充分に歓迎せずに、彼等をほったらかしにしたのだ。  このようなウクライナ政府の無責任な態度とは対照的に、ロシア政府は黒海艦隊を我が物にしようと、様々な工作を実行していた。このような状況の中、多くの将校の意思が揺らいで、結果としてロシアに忠誠を誓うことを決めた将校は多数となった。そして、黒海艦隊はウクライナとロシアの間で分けることになった。  兵士は、自分の意思で国を選ぶことができたが、船は半分ずつ両国の間に分けることになった。しかし、ロシアは分割が有利に進むようにウクライナに圧力をかけ、結局ロシアは388隻、ウクライナは137隻で分けることになった。しかも、その中で実際の戦闘能力のあった軍艦は32隻しかなかった。だから、ウクライナ海軍というのは、一つの艦隊であるというより、無秩序な船の寄せ集めにすぎないのだ。  当然この状況を改善する動きはまったくなかった。それどころか、残った100隻以上の船も、処分され続ける一方だった。その中で、1998年に未完成の航空巡洋艦ヴァリャーグが中国に売却された件は有名である。中国側が水上カジノにし、軍事的使用はしないと約束したが、ご存知の通り、その後、船が中国で完成されて、今は中国軍の空母、遼寧として稼動している。これはあくまで全体的な流れを象徴している、有名な一例に過ぎない。航空巡洋艦ヴァリャーグと同様に、多くの船が外国に売却された。また、処分された船も多かった。  ウクライナ海軍はいかに情けない状況にあったか、次の傾向から明らかである。航海にも出ず、給料ももらわずにいたウクライナ海軍兵士の多くは堕落し、自分達が所属した船の一部(船丸ごとの時もあった)を切り取って、金属スクラップを買い取る業者に売っていたのだ。  また、ウクライナが持っている唯一の潜水艦もまったく海へ出ずに港で放置されてある。なぜなら、もし運航中に事故が起きたら誰かが責任を取らなければならないので、誰も責任を取りたくない。つまり、ウクライナは海軍がないに等しい状態なのだ。

陸軍も軍縮

 ウクライナ陸軍の軍縮規模も凄まじい。主要兵器はおおよそ、独立した時点の元の数の約十分の一まで減らされた。2013年末時点の兵力は兵隊17万人、戦車650輌、戦闘車両1000輌、大砲1000門であった。さらに、2014年2月、3月の間に、ウクライナ軍の中で装備を揃えていて訓練をしっかり行い、直ぐに戦える部隊はたった6000人しかいないという情報すら、情報空間に飛び交っていた。  この情報の真相は分からないが、それまで軍が置かれた状態を考慮すれば、あり得ない話ではない。独立してからの22年間にわたって、ウクライナ陸軍兵器は処分されたか、外国に売却されていたのだ。買い手は常にあった。旧型ソ連製兵器とはいえ、アジアやアフリカの発展途上国からすればそれなりに強い兵器であったので、注文がたくさんあった。 兵器の輸出自体について、(旧型の場合は特に)まったく異論はない。むしろ大歓迎すべき取引だ。問題は、売却した兵器の代わりに新しい兵器がまったく導入されなかったということだ。独立してから2013年までに、ウクライナは一切、外国から輸入していなかった。  ちなみに、ウクライナで独自の戦車や戦闘車両を製造する工場もあった。しかし、この国内工場にもウクライナ防衛省はほとんど注文しなかった。独立してから、ウクライナの工場が独自で開発した戦車が、何百輌も外国に輸出されたが、防衛省の注文でウクライナ軍に調達された戦車の数はわずか数十輌しかなかった。この数字はすべてを物語っているのではないだろうか。

軍を覆った予算欠乏と腐敗

 軍の衰退の大きな原因とは財政困窮だったと言われている。たしかに、独立してからウクライナの防衛予算は激減し、軍は常に金が絶望的に足りなかったのは事実だ。  しかし、金がまったくなかったわけではない。一応、1991年から2013年の間に、ウクライナの防衛予算は年間GDPの1%~1.5%ぐらいだった。当然少ないのだが、ゼロではない。そしてそれとは別に、先述したような兵器の輸出も行っている国営企業の売上額は、防衛予算の約半分に相当する金額に上る年もあった。  つまり、少ないながらも一定額の予算は一応毎年あったのだ。この少ない予算を効率よく使い、兵士の訓練や、既にある兵器の維持と国産新兵器(先述した戦車や戦闘車両)の導入をできる範囲で行えば、ある程度の戦闘能力を保てたはずだ。最も大きな問題とは、この少ない予算であっても軍のために使われなかったということだ。  軍の腐敗や堕落も甚だしいものとなった。軍や防衛省の中で、汚職と賄賂は蔓延し、軍の幹部は任務をほったらかしにし、私腹を肥やすことだけに専念した。防衛予算は大量に横領された。当然、誰も罰せられなかった。  また兵器だけではなく、防衛省が持っていた財産も大量に民間へ売却された。軍事施設や訓練所や演習場などの軍事インフラや土地は大量に売却され、その金額は残った軍の維持や発展に使われたのではなく、軍幹部の懐に収まったのだ。軍隊は完全に軍の上層部が銭儲けするための道具に成り下がってしまった。完全に腐敗した軍隊は、愛国心のある本物の軍人にとって居づらい場所になってしまったので、多くのまともな軍人が退役した。 【グレンコ・アンドリー】 1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択 平成30年10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択 平成30年10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
おすすめ記事
おすすめ記事