北朝鮮を支配する政治思想「チュチェ思想」の「チュチェ」とは何か

『北朝鮮を正しく理解するためのチュチェ思想入門』連載第3回 <文/篠原常一郎:元日本共産党国会議員秘書>

チュチェ思想とは何か 

 北朝鮮は金一族が支配する国であり、日本人拉致事件を起こし、日本に向けてミサイル発射実験を繰り返したり、核開発を続けたりしていることはみなさんもよくご存じかと思います。しかし、そのような活動の根底に「チュチェ(主体)思想」があるということはあまり知られていません。  最近、やっとインターネットの番組や、保守系の論壇誌などで、チュチェ思想について語られることが多くなりました。この静かなブームに火をつけたのは、どうやら私と経済評論家の上念司さんが、2019年3月にユーチューブで配信した「緊急特番『チュチェ思想研究会inチャンネルくらら』」(チャンネルくらら2019年3月4日配信)のようで、すでに50万回以上視聴されています。  私がチュチェ思想について解説するにあたって、他の方々よりこれをよく知る立場にあるのは、私自身、日本共産党の職員として何十年かを暮らしてきたことが背景にあります。というのも、チュチェ思想と共産主義は無関係ではなく、チュチェ思想とは共産主義の変形思想と言うべきものだからです。彼ら流に言えば、共産主義の体系を発展させたということです。そのため、国際共産主義運動の歴史に関しても、どの時代にどういう背景があって、チュチェ思想が生まれたかということも、私にとっては比較的、理解しやすかったのです。  チュチェ思想を論ずるにあたって、まずその起源についてお話ししたいと思います。

「チュチェ思想」の「チュチェ」とは何か?

 北朝鮮のチュチェ思想について、どのようにして生まれたのか、何を目的としているのか、なぜ現在の韓国の文在寅政権にまで浸透するほどの影響力を持ち得るのかということについて、解き明かしていきましょう。  さて、「チュチェ思想」という言葉を辞書で調べてみると、次のように書かれています。 チュチェ思想 (「主体思想」と書く)朝鮮民主主義人民共和国・朝鮮労働党の政治思想。マルクスレーニン主義を基に、金日成【キムイルソン】が独自の国家理念として展開した。人間は自己の運命の主人であり、大衆を革命・建設の主人公としながら、民族の自主性を維持するために人民は絶対的権威を持つ指導者に服従しなければならないと唱える。(小学館『デジタル大辞泉』)  まず、「チュチェ」は「主体」という意味です。主体的とか主体性といった言葉で使われるのと同じ意味です。    次に、いつ生まれたかという問題ですが、北朝鮮および日本でこの思想を崇拝して勉強している団体「チュチェ思想研究会」(別の機会に詳しく述べます)では、公式的には二つの発展段階があると言っています。  まず1930年、満州事変の1年前ですが、当時、金日成が朝鮮半島で抗日戦争を行っていたということになっています。実際にはそういう戦争などなかったのですが、北朝鮮の説明としては、金日成が若かりし時代に「朝鮮革命の主体的路線」をやっていく必要があるということを言ったとされています。  当時の時代背景は、これをさかのぼる11年前の1919年に、共産主義インターナショナル、つまりコミンテルンというものが、ロシア革命、社会主義革命の後のソビエトの首都モスクワにできました。  そこで、そこからの支援を受けるために、世界中の共産主義者がコミンテルンのお墨付きをもらおうと競い合いました。朝鮮半島の中にもいくつかのグループがあり、コミンテルンのお墨付きをもらうために派閥争いをやっていた。内輪もめです。  その頃、金日成が会議で、「日本による韓国併合や地主や資本家に対抗して資本主義を変えるのは覚束ないのではないか」と、今までの方針を批判する論文を報告したとされています。そしてこの中に、朝鮮革命の主体的路線後から取ってつけたような気がしてなりませんが。

チュチェ思想発展のきっかけは朝鮮戦争

 次に、このチュチェ思想が発展するきっかけになったのが朝鮮戦争であるとされています。朝鮮戦争は、金日成がソ連のスターリンや中国の毛沢東の支援を得て、1950年に韓国に侵攻して始まった戦争です。  1955年に朝鮮戦争が休戦すると、朝鮮労働党内で、ソ連や中国の言いなりになってばかりいては上手くいかないのではないかという論争が起こりました。  この時期、金日成は大国に付き従う事大主義やソ連流のマルクス・レーニン主義、中国の毛沢東思想を機械的に適用しようとする教条主義におもねるのではなく、朝鮮独自の主体性を確立する必要があるという演説を権力抗争に絡めて行っていました。 そして、朝鮮労働党の中の中国派やソ連派を1950年代後半に相次いで粛清したのです。  こうした一連の流れの中でチュチェ思想が生まれた、というのが公式的な誕生物語です。

「チュチェ思想」の本当の生みの親

 しかしこの公式の話は、元朝鮮労働党最高幹部で、金日成・金正日のブレーンとしてチュチェ思想を確立した黄長燁【ファンジョンヨプ】によって否定されています。

元朝鮮労働党国際担当書記だった黄長燁(1923〜2010年)。チュチェ思想の理論家だった。(ウィキペディアより)

 黄長燁は1923年に朝鮮半島で生まれました。その後、中央大学法学部で学んだため、彼は日本語ができました。日本が第二次世界大戦に敗れると、 黄長燁は1946年に朝鮮労働党へ入党します。そして、1949年にソ連のモスクワ大学へ留学して哲学博士号を取得すると、帰国後は金日成総合大学で教鞭を執り、1965年には大学の総長に就きます。朝鮮労働党でも、彼は最高人民会議議長、朝鮮労働党国際担当秘書、最高人民会議外交委員会委員長などを歴任します。  1997年には日本でチュチェ思想を研究している団体「チュチェ思想研究会」に招かれて来日し、講演を行っています。しかし、 講演を終えた黄長燁は北朝鮮に帰らず、突如、韓国へ亡命してしまったのです。  亡命後はソウルを拠点に、当時の北朝鮮の金正日政権に批判的な評論活動を続けました。そして、2010年にソウルの自宅で亡くなりました。87歳でした。  のちに黄長燁は、チュチェ思想はマルクス・レーニン主義や朝鮮古来のいろいろな哲学も含めて作った思想だと「ネタバレ」させています。  黄長燁は思想体系を作る上で、金一族が指導者として君臨するというのがその中心にある、だからチュチェ思想の端緒になるような金日成の言葉がなければいけないと考え、それで一生懸命探して見つけたのが、先の2つの「主体」という言葉だったというわけです。 【篠原常一郎(しのはらじょういちろう)】 元日本共産党国会議員秘書。1960年東京都生まれ。立教大学文学部教育学科卒業。公立小学校の非常勤教員を経て、日本共産党専従に。筆坂秀世参議院議員の公設秘書を務めた他、民主党政権期は同党衆議院議員の政策秘書を務めた。軍事、安全保障問題やチュチェ思想に関する執筆・講演活動を行っている。著書に『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(岩田温氏との共著、育鵬社)、『日本共産党 噂の真相』(育鵬社)など。YouTubeで「古是三春(ふるぜみつはる)チャンネル」開局中。
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