中国派とソ連派を排除して金日成の個人独裁を確立

『北朝鮮を正しく理解するためのチュチェ思想入門』連載第4回 <文/篠原常一郎:元日本共産党国会議員秘書>

中国派とソ連派の排除

 「チュチェ思想」という言葉が公式として使われるようになったのは1967年5月、朝鮮労働党の第15回中央委員会総会で「唯一思想体系」が確立されたことによります。唯一思想体系とは要するに、金日成を崇める思想以外のものを一切排除するという決定です。  この時期に注目していただきたいのですが、実は中国では1966年に毛沢東が失脚に近い状態を挽回するために文化大革命を発動して、個人崇拝に基づいて国家内で紅衛兵を組織し、軍や党の幹部たちで毛沢東に逆らうような者を吊るし上げて排除しました。毛沢東はこのような非科学的な路線で中国を大混乱に陥れました。  さらに中国は、毛沢東思想を外に押し付けようとしました。これに朝鮮労働党の中にいる中国派が呼応することが考えられました。また文革が公然化する数年前から、中国とソ連の間で社会主義の路線とヘゲモニー(覇権)をめぐって論争や紛争が起き始めていました。その際、ソ連も北朝鮮の親ソ派を抱き込んで中国との争いを有利にしようという動きもありました。  これらの動きに対して、金日成はどちらも排除して実勢を確立しなければならないと考えました。そこで、自らによる両派の排除を正当化するために、この唯一思想体系を確立したのです。  半年後、1966年12月には、北朝鮮の国会にあたる最高人民会議で、国家機関として国家の基本政策である「十大政綱」に「主体思想」が明記されました。つまり、チュチェ思想の始まりは権力闘争を有利に進めるための単なる理屈付けにすぎなかったのです。  その頃韓国は、1965年に日韓基本条約の締結によって日本と国交回復しています。これに伴って韓国は日本から多額の経済援助および技術援助を受けることとなり、1960年代後半期から「漢江の奇跡」と称される発展が始まります。  インドシナ半島ではベトナム戦争が勃発。北ベトナムにはソ連が、南ベトナムにはアメリカが付き、さながら米ソの代理戦争の様相を呈していました。  一方、ヨーロッパでは1968年4月、チェコスロバキアで、共産党支配の中でも自由と民主主義を広げようとする反ソ連的な「プラハの春」という市民の運動が起こっています。これは、アメリカの働き掛けもあったと言われています。プラハの春は、「ワルシャワ条約機構」というソ連の同盟国軍5カ国の侵攻を受けて頓挫してしまいますが、社会主義陣営も非常に不安定な時期でした。  こういうことが北朝鮮でも起こってしまえば、金一族の支配体制が揺らぎかねません。そこで、金日成は引き締めを図ろうとしたのでしょう。

青瓦台襲撃未遂事件とプエブロ号事件

 1968年4月、北朝鮮の特殊部隊が韓国の青瓦台(大統領官邸)を襲撃しました。大韓民国の当時の大統領だった朴正煕の殺害を企てた青瓦台襲撃未遂事件です。  その2日後の1968年1月23日には、北朝鮮東岸の元山港沖の洋上で、 電波情報収集任務に就いていたアメリカの武装情報船プエブロ号が、朝鮮人民軍海軍艦艇に拿捕【だほ】され、80余人の乗組員が逮捕、取り調べを受けるという事件が起こりました。プエブロ号事件です。

北朝鮮の首都平壌に係留されているプエブロ号(2009年)。(ウィキペディアより)

 当時はベトナム戦争の最中で、アメリカに対する国際的世論の批判もあり、結局、同年12月23日、アメリカ側が公式に謝罪しました。  ベトナム戦争は結局、北ベトナムが勝利し、アメリカは撤退を余儀なくされます。こうした社会主義陣営の軍事的な勝利もあり、北朝鮮は過激な路線に統一して向かっていこうと目論み、そこにチュチェ思想が上手くハマったわけです。

日本共産党の北朝鮮への働きかけ

 ところが、この動きに対して、待ったをかけようとしたのが日本共産党でした。日本共産党は、朝鮮戦争の時にレッドパージでひどい目に遭い、自分たちも間違った路線で山村工作隊や火炎瓶闘争やって、結局は自滅しました。だから、1968年に日本共産党の幹部が北朝鮮に行って、過激な路線はやめてほしいという話をしています。もちろん北朝鮮側は聞き入れませんでした。  1970年には、朝鮮労働党が党の「最高決定機関」とされる党大会(第5回)で金日成の「唯一思想体系」が定式化されました。このチュチェ思想に基づいて国家指導と対外路線をそれぞれ運営していくための思想体系は、「金日成主義」と呼ばれることになりました。現在は、金日成とその後継者だった息子の金正日も含め、「金日成・金正日主義」と呼ばれています。  これがチュチェ思想の成り立ちのあらましです。結局、これで分かるのは、北朝鮮ではチュチェ思想について「人間第一の思想である」とか、「社会と自然に対する主人は民衆である」とか、きれいごとを言っていますが、実際には社会主義諸国の動揺や、党内のさまざまな派閥を淘汰して、金日成の個人独裁あるいは金一族の世襲体制をつくることに合わせて、北朝鮮の中で絶対化され、独裁を支える思想になったのがチュチェ思想だったということです。 【篠原常一郎(しのはらじょういちろう)】 元日本共産党国会議員秘書。1960年東京都生まれ。立教大学文学部教育学科卒業。公立小学校の非常勤教員を経て、日本共産党専従に。筆坂秀世参議院議員の公設秘書を務めた他、民主党政権期は同党衆議院議員の政策秘書を務めた。軍事、安全保障問題やチュチェ思想に関する執筆・講演活動を行っている。著書に『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(岩田温氏との共著、育鵬社)、『日本共産党 噂の真相』(育鵬社)など。YouTubeで「古是三春(ふるぜみつはる)チャンネル」開局中。
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