縄文精神とやまとごころ(1)

日本国史の源流:書影

田中英道著『日本国史の源流』書影

なぜ「奈良」と名づけられたのか

 日本国は、どのようにしてつくられたのか? 日本人は、何をよりどころにしてきたのか?  「縄文精神」と「やまとごころ」の2つのキーワードから日本史の本質を読み解く『日本国史の源流』(田中英道著・育鵬社)が刊行された。扱っている時代は、縄文時代から奈良時代の日本である。  今回は、その中から、内容の一部を以下にご紹介したい。どうして「奈良」という名前がつけられたのか、についてである。  文化の充実を見た奈良時代ですが、この「奈良」の語源は日本語の「なら」から来ている、という説があります。それは『日本書紀』の崇神天皇の条が証拠とされています。  旧奈良市西郊、すなわち佐保、佐紀北方のなだらかな丘陵が「ならやま」と呼ばれているからです。崇神天皇十年九月、天皇の異母兄、武埴安彦(たけはにやすひこ)が謀反を起こして山背(やましろ:山城のこと)から大和に攻め入ろうとしました。天皇は、大彦命(おおひこのみこと)と彦国茸(ひこきにぶく)にこれを迎え撃つよう命じ、二人は精兵を率いて「那羅山」に登って陣を布きました。  《時に官軍屯聚(いわ)みて、草木を蹢跙(ふみなら)す。因りて以て其の山を号けて、那羅山と曰う》  この《蹢跙す》を説明して、《此をば布(ふ)瀰(み)那(な)羅(ら)須(す)という》といっていますが、「ならす」ことが「那羅」の語源だとしています。もちろん、崇神朝のこの謀反がもととなって、「ならやま」の話が起こったかどうか詳(つまび)らかではありませんが、すでに柳田國男氏や中野文彦氏によって指摘されているように、平地より山腹に連なる緩傾斜地や平坦部の周辺が「なら」と呼ばれている例は全国に数多く、「奈良」が「ならす」という言葉から来ていることは確実と考えていいでしょう。  草木を踏みならすことが、土地にとっていかに重要なことかは、『古事記』の仁徳天皇の段に、大后石之売(おほきさきいわのひめ)(磐之媛)が「那良の山口」で、次の歌をうたったことでもわかります。  《つぎねふや 山代河を 宮上り 吾がのぼれば あをによし 那良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 吾が 見が欲し国は 葛城 高宮 吾家のあたり》(『古事記』仁徳記)  奈良を過ぎ、城下郡大和郷(しきのしもごおりやまとむら)(天理市新泉町付近)の倭を過ぎるというのですから、山代河(木津川)の木津で船を降り、奈良坂を越えて奈良を通過し、上つ道を通って倭へ行くという交通路の存在がわかります。この歌に見えるように、奈良は山背から大和への入口、大和側からいえば山背への出口にあたります。  ちなみに、『大日本地名辞書』を開くと、「なら山」を『万葉集』の中で、「楢山」(巻四、五九三・巻十三、三二四〇)と記す例のあることなどから、楢の木が茂っていたことにより「なら」の地名が生じたのではないか、という説もある(吉田東伍・同書参照)。  以上、『日本国史の源流』(第11章 奈良仏教と「古典文化」より)  ぜひ、ご一読を。 (文責:育鵬社編集部O)
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