ドキュメンタリー監督・原一男、22年ぶり新作への思い「面白い映画になってるやろか?」
『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』などのセンセーショナルなドキュメンタリー作品で知られる映画監督・原一男。彼の22年ぶりの新作がシネマヴェーラ渋谷にて2月27日(土)に上映される。
”アスベスト”の人体に対する危険性を知りながらその規制を怠ったとして、国の責任を問う被害者とその裁判を8年に渡り追い続けた『ニッポン国泉南石綿(アスベスト)村 ~劇場版 命てなんぼなん?~』。今回、本作への思いや制作過程での苦悩、現代の日本のドキュメンタリー界に対する不満などを原監督自身に迫った。
――まず今回、新作を撮ることになったきっかけを教えていただけますか?
原:’97年に関西テレビと共同で『映画監督 浦山桐郎の肖像』というドキュメンタリーを撮りました。そのときのプロデューサーと一緒に関西テレビにいくつか企画を出したりしているうちに「アスベスト問題をやろう」となって。最初はニュース番組内の20分くらいの枠の映像をいくつか撮り、いずれ劇場で上映できるような長編を作ろうという計画でした。
しかし、最初の1本目が我ながらあまりにも酷い出来になってしまい……。20分の映像にはその尺の映像の作り方というものがあるんですよね。長編をやってきた僕らには向いていないんだと思い知らされました。そこで、テレビは諦め、自分たちで長編映画を作ろうと思い立ち、私が教授をしている大阪芸術大学に研究費を申請するなどして、今日に至りました。
――実に22年ぶりとなる今回の新作。なかなか怒りを露わにしない原告団に対し、もっと激しい画を撮りたい監督のもどかしさのようなものをひしひしと感じました。
原:そうなんですよ! こちらが求めても求めても、それが得られず「撮れた!」っていう感じがしないんですよ。一連の裁判が終わり、もう撮るものが無いから、仕上げるほかなく編集を始めたという感じです。ドキュメンタリーのクランクアップというのは良いシーンが撮れて、納得して終わるものです。しかし、今回それがなかなか得られないという。同時進行で、水俣の問題も11年間程追い続けているのですが、全く同じ状況です。
――今までの作品では『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三や『極私的エロス・恋歌1974』の武田美由紀のような、物凄く個性の強い人物を描いてきました。
原:はい。けれど、今回はその”スーパーヒーロー”がいないんですよ。相手は普通の生活者。そこが非常に難しいところでした。奥崎さんは私以上に「(自分を)撮ってくれ、撮ってくれ」という人でしたが、生活者は何よりも自分の生活を優先するんですね。こちらの踏み込んだ要求にはなかなか応えてもらえない訳です。それは決して悪いことではないですし、非難する権利は誰にもありません。ですが、作品にするということは表現行為になるワケで、撮る側も撮られる側も捨て身にならなくては成立しないんですよ。
――『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三のような”スーパーヒーロー”はまた出てくると思われますか?
原:もういないでしょうねぇ……。今でもそういう人を無意識のうちに探してはいるのですが、奥崎さんみたいな人はいませんね。もし今の時代にそういう人がいたらすぐにネトウヨみたいな人に叩かれて、成立しないと思いますね。奥崎さんや武田美由紀のような、秩序を破ろうとするような運動は時代が受け止めてくれないでしょう。そういう抑圧の構造が平成の時代にはあると思いますね。
しかしね、本作の被害者の方の中で唯一、そういう殻を破ってくれた女性がいました。いつものようにお宅にお邪魔すると、彼女は「自分はお風呂の中で決まって咳が止まらなくなるんだ」と。それでね、「原さん、撮りたいんでっしゃろ?」って言う。すぐ「お願いします」と言って撮らせてもらいました。強引に口説いても、嫌なものは嫌というのが生活者です。この映画でその限界が突破できたと私は思っていないんですよね。だから「面白い映画になってるやろか?」、「原告団の皆さんが魅力的に映ってるやろか?」って不安で仕方ないんですよ。
――かなり不安な気持ちで上映に臨まれているのですね。
原:不安というか、観客に対して疑り深いんですよ。これは今回に限ったことではないですけどね。上映回数を重ねて、かなり大勢の人が良かったと褒めてくれて、初めて信じていいのかなと思える。それだけ批評というものは厳しくあらねばならないという考えが根底にあるから。
――上映回数を重ねてたくさんの批評を受けることが大切なのですね。トークショーでは「これから上映運動をする」と仰っていましたが、具体的にはどうされていく予定ですか?
原:おそらくアスベストの運動の場で上映していくと思いますが、ドキュメンタリー作家としては運動の映画を越えて「人間とはこういうものなんだ」というような抽象的なレベルまで達した表現を狙っているので。もっと幅広い層の観客に観てもらいたいという思いがあります。
――先ほど「観客に対して疑り深い」とありましたが、逆に原さんは最近の日本のドキュメンタリー映画について、どんな評価をお持ちなのでしょうか。
原:観る側も含めて、作品を観る能力、感性が劣化していると感じています。ネットですごく評価されている作品でも、観に行ってみたら「こんなもんか!」ということがよくありますね。厳しい批評があって、それに対してまた映画を作る。つまり作家を育てるのは観客なんですよね。それなのに今は作品に対する評価が本当にぬるいでしょ。私はこのぬるま湯に浸かったような日本のドキュメンタリーの現状はすごく嫌なんです。
――日本のドキュメンタリー映画でも果敢に取り組んでいる作品は増えたと感じますが……。
原:話題になっている作品は出来る限り、観ていますが、ぬるいなと思ってしまいます。例えば、大きな組織の中で作りながら、異端をやっているつもりなのだろうけど、異端をやってるんだから、「もっと踏み込めよ、めちゃくちゃにやれよ」という気持ちになります。「なるべく問題を起こさないように異端を撮りました」では誰も納得できないですよね? やっぱりドキュメンタリーっていうのは自分の身を捨てないと見えてこないものだと思うんですよ。
――新刊『ドキュメンタリーは格闘技である』についてもお話を伺いたいのですが。
原:これは私自身が「映画をもっと勉強したい」と思って開塾した「CINEMA塾」の講座にゲストとしてお招きした、映画監督との対談がベースです。具体的なテーマとしては「ドキュメンタリーとフィクションのボーダーを越える」ということで、ゲストにはドラマの監督だけれどもドキュメンタリーを撮っている、という監督に来てもらいました。
私は「映画は描きたいことがその作品の中で全部語られているべきだ」という考え方を持っていました。しかし、『ゆきゆきて、神軍』を撮ったとき、言いたいことの2割くらいしか描けなかったんです。そこで、『ゆきゆきて、神軍 製作ノート+採録シナリオ』という本を出したり、上映前後のトークの中で語ったりした訳です。
この経験から裏話を聞いてから映画を見ることで、より映画が理解できたり面白くなったりすることがあり得るんだと今は考えています。今村昌平監督の『人間蒸発』なんか、裏話を聞くと抜群に映画が面白く観られるんです。こういった、私が裏話を是非聞きたいと思った監督に根掘り葉掘り聞いています。
――本日はお忙しいところありがとうございました。ご活躍期待しております!
●『ドキュメンタリーは格闘技である』刊行記念
「フィクションとドキュメンタリーのボーダーを超えて」がシネマヴェーラ渋谷にて開催中。原監督の代表作はもちろん、約22年ぶりの新作『ニッポン国泉南石綿村~劇場版 命てなんぼなん?~』も27日(土)に上映予定。詳細はHP(http://www.cinemavera.com/)にて。
<取材・文/鴨居理子 井野祐真(本誌)>
『ドキュメンタリーは格闘技である』 「ゆきゆきて、神軍」「さようならCP」など異色のドキュメンタリーで有名な原一男。彼と日本映画の巨匠が語る映画・エロス・虚実についての極私的な対談集。 |
『ゆきゆきて、神軍』 今村昌平企画、原一男監督による異色ドキュメンタリー。天皇に向けパチンコ玉を撃った過去を持ち、過激に戦争責任を追及し続けるアナーキスト・奥崎謙三。そんな彼が、ニューギニア戦線で起きた疑惑の真相を探るべく、当時の上官を訪ね歩く姿を追う。 |
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