プロレスラーとロックスターの混血――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第318回(1999年編)
その後、11月2日付でTBS(ターナー・ブロードキャスティング・システムズ)エンターテインメント社ブラッド・シーガル社長が本社からの出向―執行人事という形でWCW新社長に就任した。
もともとWCWはジョージア州アトランタのテレビ局TBSの子会社(プロレス事業部)だったが、親会社TBSがタイムワーナー社に身売りし、そのタイムワーナー社もAOLに統合されたため、WCWはいつのまにかタイムワーナーAOL社のなかの1部門となっていた。
かつて“テレビ王”の異名をほしいままにしたテッド・ターナーTBSオーナーもその政治力を失いつつあった。
WCWはプロレス団体というよりも毎週月曜夜の“ナイトロ”(と火曜夜の“サンダー”の2番組)をプロデュースするための番組制作会社のような組織に再編成され、この年の10月には“ロウ”の番組担当構成作家だったビンス・ルッソーとエド・フェレーラのふたりがWWEからヘッドハンティングされた。いまになってみると、この“放送作家”起用プランこそWCWの内部崩壊の第一歩だった。
“ストーンコールド”スティーブ・オースチンがザ・ロックを下してWWE世界ヘビー級王座奪回に成功した3.28“レッスルマニア15”以後、同王座はアンダーテイカー(5.23カンザスシティー)―ストーンコールド(6.28シャーロット)―マンカインド(8.22ミネアポリス)―トリプルH(8.23アイオワ)―ビンス・マクマホン(9.14ラスベガス)―トリプルH(9.26シャーロット)―ビッグショー(11.14デトロイト)とひじょうにこまかい移動劇をくり返した。
WCWからWWEへの移籍は、ジェリコにとっては計画どおりの行動だった。WWEスーパースターの仲間入りを果たしたジェリコはインターコンチネンタル王座、ヨーロピアン王座をたてつづけに獲得――その後、2001年12月9日=カリフォルニア州サンディエゴ、PPV“ベンジェンス”で開催されたワンナイト・トーナメントでストーンコールドとロックのふたりを下し“初代”WWE・WCW統一世界ヘビー級王者となった――。
ロックバンド、FOZZYのリードヴォーカルとしての活動をスタートさせ、ムーングース・マックイーンの“芸名”でMTVの番組ホストも担当。プロレスとロックの二足のわらじをはくようになった。
ジェリコのすぐ後ろではクリス・ベンワー、エディ・ゲレロら“怒れる男たち”がWCWからの脱出を計画していた。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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