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“サマースラム99”はミネソタ狂騒曲――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第315回(1999年編)

“サマースラム1999”ジャケットカバー

“サマースラム99”の主役はストーンコールドでもロックでもトリプルHでもなく、元WWEスーパースターで現職(当時)のミネソタ州知事ジェシー・ベンチュラだった(写真はWWEオフィシャルDVD“サマースラム1999”ジャケットカバーより)

 夏のスーパーイベント“サマースラム”の主役は、ストーンコールドでもロックでもトリプルHでもなく、またビンス・マクマホンでもなく、1999年の8月22日だけに限っていえばミネソタ州知事(当時)のジェシー・ベンチュラだった。

 ジェシー“ザ・ボディー”ベンチュラといっても、いまどきのプロレスファンにはあまりピンとこないかもしれない。

 元ネイビー・シールズ(海軍特殊部隊)。元プロレスラー。元アクション映画俳優。公式プロフィルのなかではこの3つのアイテムがイコールで結ばれていて、プロレスはベンチュラが若いころに経験した、ちょっと変わった仕事といった扱いになっていた。

 もちろん、プロレスラーとして過ごした11年間のチャプターがなかったら“ジェシー・ベンチュラ”なんて人物は存在していなかった。

 海軍特殊部隊時代のジェームス・ジョージ・ジェイノス(本名)は、ベトナム戦争では――だから死ななくてすんだのだけれど――ギリギリのところでじっさいに戦場へは行かなかった世代の軍人だった。70年代前半は“スーパースター”ビリー・グラハムに心酔し、西海岸カルチャーにあこがれ、プロレスラーになったときはサーファーの町、カリフォルニア州ベンチュラをリングネームとしてアダプトした。

 ベンチュラにプロレスをコーチした師匠はエディ・シャーキーで、シャーキー道場の系譜ではベンチュラはロード・ウォリアーズ(アニマル&ホーク)、リック・ルード、バリー・ダーソウ(クラッシャー・クルシチェフ、デモリッション・スマッシュ)、トム・ジンク、メドゥーサらの兄弟子にあたる。

 現役時代のタイトル歴はAWA世界タッグ王座(パートナーはエイドリアン・アドニス)。日本のプロレス・シーンとリンクするところでは、1982年4月(蔵前国技館のワンマッチ興行でアントニオ猪木とシングルマッチで対戦)と1983年1月に2度だけ来日。新日本プロレスのリングに上がった。AWAではマサ斎藤とのコンビでファー・イースト・ウエスト・コネクションというタッグチームを組んでいたこともあった。

 1984年に心臓のすぐそばに血栓がみつかって現役生活を断念したあとはWWEのTVショーでヒールのコメンテーターとして活躍し、俳優としては映画『プレデター』『ランニングマン』などでアーノルド・シュワルツェネッガーと共演した。

 地元ミネアポリスではラジオのパーソナリティー、エコロジー運動家としても活動し、ミネソタ州ブルックリンパーク市の市長を一期(1991年~1995年)つとめたあと、1998年11月、“第3政党”改革党からミネソタ州知事選に立候補し当選。アメリカ国内だけでなく世界じゅうをあっと驚かせた。

 アメリカ合衆国でいちばん人気のある政治家――あるいはいちばん物議をかもす政治家――に変身したベンチュラは、ちょっとだけヘビーになった“ボディー”を黒と白のピンストライプのレフェリー・ジャージーの下に隠し、とんでもなく威厳のある特別レフェリーとして“サマースラム”のリングに立った(1999年8月22日、ミネソタ州ミネアポリス、ターゲット・センター=観衆1万9404人)。

 現職州知事とWWEのコラボレーションはやっぱりアメリカのマスメディアの総攻撃を受けた。“聖職”にある者がその知名度と立場を利用して低俗なショーに出演するとはけしからん、ファイトマネーをもらうのもけしからん、そもそもプロレスがけしからん、というのがマスメディアが“操作”した世論だった。

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“ロウ・イズ・ウォー”に貼られたレッテル

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