更新日:2022年12月10日 18:30
スポーツ

エドワード・カーペンティア テーズを倒した“マットの魔術師”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第10話>

 いっぽう“テーズ・ベルト”を腰に巻いたカーペンティアはNWA世界ヘビー級王者として全米ツアーを開始した。  マソニックNWA会長との衝突からモントリオール(クィン派)はNWAを脱退。  オマハ(ジョー・デューゼックJoe Dusek派)、ボストン(エイブ・フォードAbe Ford派)、ロサンゼルス(ジュールス・ストロンボーJules Strongbow派)もカーペンティアを支持した。NWAは完全に分裂した。  キラー・コワルスキーがカーペンティアを倒すと、コワルスキーを世界王者と認定する新団体AAC(アトランティック・アスレチック・コミッション=1958年)がボストンに出現した。  カーペンティアがバーン・ガニアに敗れるとネブラスカ州オマハにAWA(1960年=ミネアポリスAWAと1963年に合併)が誕生し、ロサンゼルスの新団体NAWA(ノース・アメリカン・レスリング・アソシエーション=1960年、翌年WWAに改称)はカーペンティアを初代世界チャンピオンに認定した。  結果的に、カーペンティアは“テーズ・ベルト”をのれん分けしながらアメリカじゅうを歩いたことになる。“マットの魔術師”はまさに魔術師のようにアメリカじゅうに世界ヘビー級王座のスピンオフを産み落としていった。  全米各地のプロモーターがなぜNWAを否定し、カーペンティアの支持にまわったのかといえば、それはカーペンティアがつねに1万人クラスの観客を動員することのできる人気者だったからだ。  “空飛ぶフランス人”はそれからさらに20年間、サマーソルトで宙を舞いつづけた。  1970年(昭和45年)に国際プロレスに来日し、44歳のカーペンティアのやや枯れたアクロバティックな動きがマニアを喜ばせた。  1981年に引退後はWWEのフランス語放送のコメンテーターとしても活躍(1984年―1990年)。  30歳のときにほんの3カ月間の滞在のつもりでパリからカナダにやって来たカーペンティアは、それから54年間、フランス語が話せるモントリオールで暮らした。  英語とフランス語のバイリンガルのフレンチ・カナディアンは、“魔術師”カーペンティアをジュヌセクワje ne sais quai(なにかわからないなにか、不思議な魅力)と形容した。  2010年10月30日、カナダ・ケベック州モントリオールの自宅で心臓発作で死去。84歳だった。 ●PROFILE:エドワード・カーペンティア Edouard Carpentier 1926年7月17日、これまではポーランド出身とされてきたが、近年の調査ではフランス・ロアール地方ロアンヌ生まれがコンセンサスとなっている。ロシア人の父親とポーランド人の母親のあいだに生まれた。本名エドアルド・イネーツ・ヴィーソアキーヴィッツ。オリンピック強化選手(体操)だったが、第二次世界大戦中にフランスに疎開。戦後、パリでサーカスに入団。俳優のエディ・コンスタンティーヌに勧められプロレス転向。1950年にエディ・ウィスコースキーのリングネームでフランスでデビュー後、1956年にカナダに移住した。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
1
2
※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス読本」と書いたうえで、お送りください。

※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です

フミ・サイトーのアメリカン・プロレス講座 決定版WWEヒストリー 1963-2001

WWEはいかにして世界を征服したのか?幾多の危機を乗り越え、超巨大団体へと成長を遂げたその歴史を克明に描く「WWEの教科書」

おすすめ記事
ハッシュタグ