名優・大杉漣の想い出ーー吉祥寺と高田渡を愛した人
楽しそうに音楽仲間たちとお酒を酌み交わす高田さんの姿を、まだ何者でもなかった若き日の大杉さんは一体どんな思いで見つめていたのだろうか? 実は、2012年11月11付の朝日新聞に、高田さんの著書『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫)の聞き語りの「書評」として、大杉さん自身がこう話している。
「中央線の吉祥寺に住んでいたころ、昼間からやってる“いせや”という焼き鳥屋周辺で、渡さんの姿をファンの一人として見ていました。徳島での少年時代には深夜ラジオでよく歌を聴いていましたしね。客のおじいちゃんたちと何かしゃべって笑って、酒を飲んでいる。あるいは井の頭公園で寝転んでいたり、ギター背負って千鳥足で歩いていたり」
やりたいことが何なのか? そんな若者特有の葛藤を抱えながら、大杉さんはもうもうと煙が立ち込める井の頭公園脇に立つ焼き鳥屋「いせや」で、遥か雲の上の存在である高田渡さんの背中を眺めていたのかもしれない。
23歳の頃、「ぐゎらん堂」で大杉さんは運命を変える一冊の本と出合っている。それは、偶然手に取った演劇雑誌「新劇」。何気なく雑誌をバラバラめくっているうちに、そのなかに書いてあった一文に大きな衝撃を受けるのだ。「劇を行なうのにふさわしい者は、おそらくこの世に存在しない。存在するのは、ただ現実の生活に適さない面を持った者たちである」
執筆者は、劇団「転形劇場」を主宰する演劇界の鬼才・太田省吾さんだった。
「ものすごくアカデミックな時代で、日本のアンダーグランドな演劇の第1次ブームなのに、こんなに地味な発言をする演劇人がいるのか――」と大きな興味を抱いた大杉さんは、エッセイの横に書かれていた連絡先の電話番号をメモし、翌日さっそく電話をした。
この一本の電話が「転形劇場」入団のきっかけとなり、大杉さんの40年以上にわたる俳優人生の“出発点”となったのだ。時を経て、2003年5月3日……。北野武監督の映画『ソナチネ』での演技が大反響を呼び、俳優として大ブレイクを果たした52歳の大杉さんが、この日、吉祥寺駅前の特設ステージに佐野史郎さんと2人で立っていた。
それは、年に一度、ゴールデンウイーク期間中に開催されている「吉祥寺音楽祭」のステージで、生前の高田さんが毎年大トリで出演していた音楽イベント。同じく高田さんを敬愛する佐野史郎さんとデュオユニットを組み、高田さんの名曲「生活の柄」を“熱唱”したのだ。
“熱唱”との表現はミュージシャンに贈る賛辞のように思われ、常套句の如くよく使われる言葉だが、違った意味にとらえるミュージシャンもいる。大杉さんが高田さんから言われて心に響いた言葉として、同じく朝日新聞の「書評」でこう語っている。
「僕も高校時代からギターを弾いていて、45歳くらいのとき、バンドを組んで歌い始めたんです。そうしたら渡さんが“ゲストで歌ってよ”と言うんですよ。素人なのに無謀甚だしいんだけど、“大杉さん、きてほしいんだよね”と。結局3回、ゲストで歌い、3回とも“ああ、大杉さん、熱唱だね”と言われて。胸に刺さりました。だって、本当の表現は熱演とか熱唱を越えたところにあるわけじゃないですか。いつの日か、“今日は熱唱じゃなかったね”と言われたかったですけど」
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