名優・大杉漣の想い出ーー吉祥寺と高田渡を愛した人
稀代のバイプレイヤー・大杉漣さん(享年66)のお別れ会が4月14日に青山葬儀所で執り行なわれることが、所属事務所より発表された。急逝されてから1か月以上が過ぎた今も、名優の死を悼む声が、芸能界にとどまらず、多くのファンから聞かれている。
「大杉さんがまだ若い頃、ハモニカ(横丁)の小さな店で飲んでいるのを見たことがあるよ。ニヒルなイメージとは違って、周りの人と一緒に気さくで楽しそうに飲んでたなぁ……。あと10年くらい長生きして、歳を重ねた彼の芝居を観させてほしかったねぇ」
日本フォーク私的大全』)
大杉さんが俳優をめざすキッカケとなった街、吉祥寺で飲んでいたら、ふとそんな言葉が聞こえてきた。
1969年春、大杉さんは思いを寄せていた高校の同級生を追うように徳島から上京し明治大学へ入学している。だが、彼女にフラれ、大学も辞めてしまった大杉さんは、肉体労働で日々の食い扶持を稼ぐその日暮らしの生活を送っていた。当時住んでいたのは吉祥寺の駅に程近い4畳半の風呂なしアパート「亀良久(きらく)荘」。家賃は4500円だったという。
では、なぜ大杉さんは吉祥寺に住み始めたのか? それはおそらく、敬愛するフォークシンガーの高田渡さんが暮らす街だったからだろう。
高田渡さんとは、1970年代に「自衛隊に入ろう」「三億円強奪事件の唄」などの風刺を込めた歌でカリスマ的存在となった孤高のフォークシンガー。のちに俳優となった若き日の大杉さんが高田さんに、「息子さんの“漣”さんの名前を芸名にください!」と直談判したのは知る人ぞ知る逸話となっている。
この頃、後に妻となる弘美さんと知り合った大杉さんは、女優を目指していた弘美さんの影響で演劇に興味を持ち始めるが、ちょうど時を同じくして高田さんがたまり場のようにしていた吉祥寺のライブハウス「ぐゎらん堂」に出入りするようになる。1970年にオープンした「ぐゎらん堂」はライブハウスの草分け的存在で、高田さんを筆頭に、なぎら健壱さんや友部正人さんなどの伝説のフォークシンガーたちが、さまざまなライブイベントを行っていた“フォークの殿堂”だ。(1985年に閉店)高田さんと「ぐゎらん堂」の関係を、高田さんを師と仰ぐなぎら健壱さんが自著のなかでこう思い返している。
「その頃は、高田渡は吉祥寺のアパートに住んでいたが、いつも“ぐゎらん堂”というフォークのメッカになっていたライブハウスで酒を飲んでいた。暇なときは開店から閉店まで人を変えて話をツマミに飲んでいたが、僕もそんな彼を見ながら、“うん、フォーク・シンガーとして正しい姿勢だ”とばかりガブガブ飲んでいた。帰りの電車賃がなくなって、何回かアパートに泊めてもらったりもしたが、あの頃は明日のことを気にしなくてよかった分、楽しかったな……」(なぎら健壱著『
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