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許永中から司馬遼太郎、山根明も魅了された? 「殺しの柳川」から見る日韓の歪み

在日が抱える葛藤

 そこには、在日が抱える葛藤も垣間見える。 〈「私ら在日は日本において差別されただけでなく、本国からも見捨てられ、挙句の果てに利用された苦難の歴史を歩んできたんです。泥田を這うような暮らしをしていた私らを守護神のように守ってくれたのが、柳川さんが持つ暴力でした。あの時代を乗り切るには柳川さんの暴力が必要だったんです。在日の知識人のペンの力だけではどうにも弱かった」  民団(在日本大韓民国民団)大阪の幹部にもなった柳川の元側近の李明昌(仮名)はそう語る。〉  実は、「在日の天皇」と評される一方で、柳川は在日社会から疎まれる存在でもあった。山口組傘下にあった柳川組は1960年の明友会事件で、尖兵として在日の愚連隊組織であった明友会を襲撃。同胞同志の殺し合いを制したことで、「男を下げた」のだ。その後、破竹の勢いで柳川組の名を全国に知らしめたことで、「在日=暴力」のイメージを植え付けた存在として、柳川を疎む声もあがった。 「今でもそう。多くの在日の方たちが経済的にそれなりの地位を築いているので、昔を知る二世ほど柳川次郎に対して否定的。若い三世、四世になると、『生きていくためにヤクザをせざるをえなかった』なんて時代は完全に過去の話ですから、日本における在日差別に抗ったと聞かされたところで、柳川次郎を受け入れられない」(竹中氏)  同書にはヤクザとして生きざるをえなかった一方で、同胞からも疎まれた柳川の葛藤が描かれている。組を解散した後、柳川が「ヒョンニム=兄貴」と慕った韓国の老学者の話は印象的だ。 〈「非常に謙虚で人間的魅力があり、もし韓国で育っていれば、ひとかどの人物になったはずだ。自分の意見を押し付けるようなことは決してせず、意見が分かれると、『ヒョンニムのいう通りでしょ』というので、『いや、そうとも限らない』と言い返すと、『私は人を殺したような人間ですよ。あなたが正しいに違いない』と言ったりする。ヤクザだったことへの悔悟の念は強かったのだろう」〉  著者の竹中氏も次のように話す。 「取材で出会った柳川組の元組員に言われました。『竹中さん、俺の命令で人を殺してこいって言ったら殺しに行くヤツがいるんだよ。これはものすごい力なんだ』って。柳川次郎は最盛期には千何百人っていう構成員を抱えて、もの凄い力をもっていたんです。それを捨ててカタギになって日韓のために奔走してみたものの、結局まわりは『元ヤクザ』という色眼鏡で見て、まともに取り合ってくれない。そんな柳川の心情を、ヤクザ引退後の柳川の側近だった青垣(仮名)は『ある種の虚無感を抱えていた』と表現していました。だから、柳川は組の再興を本気で考えていた時期もあったんです。柳川を知る大半の人は『再興なんて考えたはずがない』と否定するんですけど、青垣が柳川から託されたもの凄いダイヤの指輪の裏側に、その思いがはっきりと刻印されていました。何が書いてあったかは、絶対に言えませんが……」  そのうえで、竹中氏は「今、柳川次郎がいたら」と想像する。 「日韓関係がこじれて、一番苦しんでいるのは在日の人たちです。特に苦しんでいるのは民団。民団中央(東京)の呉公太前団長は、慰安婦問題で日韓関係が悪化した際に、『日本側の事情もくみ取ってくれ。じゃないと我々在日がつらい思いをするんだ』と伝えて、しばらく韓国側から叩かれまくったんです。日韓関係がこじれると、在日の人たちは日本では『韓国の肩を持つのか』と叩かれ、韓国からは『日本の肩を持つのか』と叩かれる。許永中も『大阪は在日の首都。そこに住む同胞たちが今最も苦しい思いをしている』と話していました。もしも、今、柳川次郎が生きていたら日韓関係の修復を願って奔走しただろうと考えざるをえません」  日韓の繋がりの深さを知るのに同書はうってつけの一冊かもしれない。 取材・文/日刊SPA! 写真/著者提供
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■インフォメーション
『殺しの柳川 日韓戦後秘史』刊行記念イベント
竹中明洋×山根明「最強の武闘派ヤクザ・柳川次郎とは何者か」

●日時/8月23日(金) 19時~(18時半開場) 
●場所/ジュンク堂書店・大阪本店3Fイベントスペース
※イベントは事前予約制。詳細は下記URLよりご確認ください。
https://honto.jp/store/news/detail_041000036076.html?shgcd=HB300

殺しの柳川~日韓戦後秘史~

差別と貧困に暴力で抗った男は最恐軍団・柳川組を率いた後祖国発展のために身を捧げた。国家を動かしたヤクザの肖像

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