ミャンマーと日本の懸け橋になりたい
――家族は止めないのでしょうか?
渡慶次:最初こそ「もうやめて……」なんて泣いていましたが、現在は試合の翌日で顔がパンパンに腫れていても保育園の送り迎えを頼まれたりします。子供ですら「ファイトマネーでおもちゃ買って!」と父親が死にそうなのに言ってきますから(笑)。
僕の両親はもうサジを投げてしまったようですね。「お前には教育費もかけたし、100万円以上かけて歯の矯正もしたのに……」と小言は言われますけど。
――そもそも、子供の頃から荒っぽかったんですか?
渡慶次:う~ん、今で言ったら発達障害認定されちゃうぐらい、保育園を何回も抜け出すような子供でした。小学校で勉強しなくても、塾に行っていれば点数が取れたので「授業受けなくていいや」と実際サボってました。
――ケンカとかは?
渡慶次:そういう感じじゃなかったです。少年野球もやっていましたが、小2から週6日塾に通って、中学受験もして。でも格闘技をTVで見るのは好きでした。中学のときに見た山本“KID”徳郁さんに憧れて高校3年で、地元沖縄のMMAのジムに入門。で、高校を卒業した年の11月に上京したんですけど、家も決めずに所持金3万円ぐらいで沖縄から出てきて。
目黒駅のトイレで2~3か月過ごしたりしていました。寝足りないときは渋谷の駅前にある緑の電車の中で日なたぼっこして。もはや完全にホームレスでしたね(笑)。
――さて今後ですが……。
渡慶次:ミャンマーの英雄と言われる選手と戦えるかもしれないので、それも目標ではあるんですが、5月に川崎で子供たちが襲撃された事件が起きて、いろいろと考えるようになりました。今は同じく格闘家だった方が立ち上げたセキュリティ会社「BONDS」さんで働きながら勉強させてもらっていて、いずれは自分で会社を立ち上げたいと思っています。若い格闘家たちの雇用も生み出せるし。
セキュリティ会社「BONDS」で、指導を受ける渡慶次選手
――なるほど。
渡慶次:それから、貧富の差が大きいミャンマーの実情を目にして、現地に学校をつくりたいと考えています。子供たちが将来に夢を持って、なりたい職業を選べるように。それから外国語学校をつくってミャンマーの留学生を日本に呼んだり、懸け橋になれないかなと。
僕自身もラウェイの世界で活躍して若い選手たちに夢を見せて、いずれは市議会議員や国会議員にというのも決して夢じゃないと思っています、自分の可能性として。
――大いなる夢の第一歩として、まずはラウェイでの活躍ですね。
渡慶次:ラウェイの認知度も上げていきたいですね。「ラウェイは面白いっすよ!」って、自信を持って言えますから。技のこととかわからなくても、誰がどう見ても楽しめますからね。
このインタビュー後に迎えた7月25日の大会では、“ミャンマーの暴れん坊”と称される1階級上の相手をKO寸前まで追い込むも、判定なしのルールのため引き分けに終わった。渡慶次は「また拳、骨折しちゃいました!」と笑顔で語っていたが、もう10月の大会に参戦が決まっているという。“最狂”の男は、今日もボロボロになりながら戦い続ける――。
※9/24発売の週刊SPA!のインタビュー連載『エッジな人々』に掲載したものです
【渡慶次幸平(とけしこうへい)】
’88年、沖縄県生まれ。山本“KID”徳郁の影響で格闘技を始め、’12年にMMAでプロデビュー。2年間の育児休業を挟んでMMAに復帰後、’17年からラウェイを主戦場に。’18年2月、5戦目にして初勝利を挙げてからは負けなし。日本とミャンマーを股にかけて活躍中。
取材・文/高崎計三 撮影/尾藤能暢