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ヤンキー上がりの元サンパウロ新聞記者に聞く、ブラジルで日本移民の残した功績

日本移民の理想と現実

移民

かつてこのチラシを見て多くの人が移民を決意したのか

「戦前・戦後を通して約25万人もの日本人がブラジルに渡ってきました。明治から昭和にかけての日本は経済的に恵まれず、ブラジルは国土の広い農業大国だったので、『農業に長けた日本民族をブラジルに移住させよう』という日本政府の国策として移民を募りました。彼らは出稼ぎ気分でやってきたのですが、騙されていたのです」  移民開始当初、日本人の多くは大規模コーヒー農園で働いていた。しかしブラジル人たちは黒人奴隷に代わる労働力として日本人を受け入れたものだから、奴隷と同様の劣悪な環境下で労働を課せられた。日本移民たちは農園を脱出し、自分たちで低湿地やジャングルを切り拓いて農作物を育てたが、食べるのに精一杯だった。雨期になれば、蚊が大量発生してマラリアに罹り亡くなる人も多かったそうだ。
荷物

日本からもっていかれた荷物

 また、その頃のブラジル社会の白人エリート階級からは人種差別が激しかったという。歴史を遡れば、白人がブラジルにやってきて原住民のインディオを大量虐殺した。その後、奴隷として黒人がアフリカから連れてこられ、非人道的な扱いを受けることも日常茶飯事だった。そして、その次のターゲットはアジア系移民に向けられたのだ。日系人たちは団結し、それらに対抗したという。

“最悪な治安”を理由に帰国する人も多かった

 日本移民が最初にやってきた頃から時が流れた。一世はほとんど亡くなったか、一線を退いている。吉永氏は一世の姿を新聞記者時代に見ているそうだが、その力強い姿に感銘を受けたという。 「俺、日本移民が現地でバリバリ活躍されていた最後の姿を見ているんですよ。当時、彼らは50代~60代で農園に出て指導している姿を見て、酒を酌み交わしながらいろんな話をしました。  すごかったですよ。俺がお世話になっていた日本移民はジャングルを切り拓く過程で動物ならサルでもオウムでも何でも食べた。普段はジャングルにいるから、人と話す機会がなくて。それでは気が狂ってしまうから、たまに人間を見に街へ出掛けていたそうです。ポルトガル語は独自で覚えて、文法もめちゃくちゃなんだけど、通じるから不思議なんですよね」  苦労の末、日本に戻った移民も多い。家族の問題、経済的な理由、70年代から日本の景気が良くなったこともある。なかでも深刻だった理由は、ブラジルの治安だ。 「治安が悪くて帰国した人もいますよ。稼いだ財産が奪われるだけでなく殺されてはたまらないですよね。特に都市近郊の田舎が危ないです。都市は犯罪者が多いぶん警察も多い。常に巡回しているし、通報したらすぐに駆け付けてくれる。だけど田舎は警察に通報しても来るのに時間がかかるので、犯罪者はそこを狙うんです」

「彼らの魂を引き継ぎたい」

 吉永氏は、なぜこれほどまでに日本移民に焦点を当てて取材したのだろうか。 「戦前にアマゾンへ集団移住した高等拓殖學校の学生たちを例に挙げると、『第二の満州をつくる』という当時の日本政府の政策で、陸軍中将の息子などエリート階層の学生たちがアマゾン奥地を開拓しました。彼らは日本に残っていれば官僚などの高い地位に留まれたはずですが、それでも日本の発展と理想郷の建設のために、と。  アマゾンの産業にかなり貢献したのですが、第二次世界大戦の勃発で彼らの財産が没収され、彼らの夢はアマゾンの露と消えました。そして、老人になった彼らに会った時にこう言われたのです。『自分たちがブラジルで苦労して功績をあげたことが母国の日本人に知られないまま、ジャングルで死んでしまっては、すべてが無に帰す……』。日本の国際化の先兵として現地で多大なる苦労をしたにもかかわらず、無名の人で終わってしまうこの人たちの生き様を書きたい、そして後世に残したいと思ったのです」<取材・文・撮影/嵐よういち>
旅行作家、旅行ジャーナリスト。著書の『ブラックロード』シリーズは10冊を数える。近著に『ウクライナに行ってきました ロシア周辺国をめぐる旅』(彩図社)がある。人生哲学「楽しくなければ人生じゃない」
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