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ヤンキー上がりの元サンパウロ新聞記者に聞く、ブラジルで日本移民の残した功績

 日本の生活に馴染めなかったり、先の見えない日本に辟易したり……近年は海外移住する人たちが増えている。筆者の友人・知人にもいる。だが、100年以上も前から命を懸けて海を渡った日本移民が数多くいたことをご存知だろうか? そのなかでもブラジルは地球の裏側、日本から特に遠い場所に位置する。現在、ブラジルに住む日系ブラジル人の総数は推定約200万人とも言われている(※外務省・ブラジル基礎データより)。
ブラジル番長

ブラジルのリベルダージ(日本人街)にある老舗のカラオケ店で歌う吉永氏。歌ったのは石原裕次郎の曲(笑)

 “ブラジル番長”こと吉永拓哉氏は、暴走族から紆余曲折を経て現地の「サンパウロ新聞」で記者になった。 【前回記事】⇒少年院上がりの元ヤンキーがブラジルで新聞記者になるまで  吉永氏は記者時代、日系社会を中心に取材していた。その根底には「移民たちの功績や貴重な話を後世に残したい!」という想いがあったという。そこで、詳しい話を聞くことにした。

今もブラジルで尊敬される日本移民の功績

移民船

移民資料館に展示されている移民船の模型

 1908年(明治41年)、日本からブラジルに第一回移民が開始された。現在、日系ブラジル人は彼らが多く住むサンパウロ州やパラナ州、アマゾン地域において尊敬されている。彼らの勤勉な性格、ブラジル社会の主に農業面で深く貢献してきたからだ。
雑誌

1972年にブラジルで発行されていた雑誌

 筆者が初めてサンパウロを訪れたのは1997年。日系ペンションの主人である老夫婦は一世の方だった。彼らは夜遊びに出掛ける筆者に対し、「日本人はサンパウロで一番偉いし、夜の世界でもモテるんだよ。さあ、遊びに行きなさい」と口にしていた。最初はなぜ、そんなことを言うのかわからなかったが、たしかに日本人だと告げると、多くの人から好印象を抱いてもらえていることを実感できた。  当時、リベルダージ(日本人街)では日本移民を多く見かけたが、半世紀前は肩がすぐに触れ合うぐらいに多かったそうだ。また、こんな話がある。 「サントスの港に日本人を乗せた移民船が到着した時、地元のブラジル人たちが『どこに移民がいるのだ?』と口々に言ったとされています。今まで見てきた他国からの移民は本国では食えず、貧しそうな身なりだったのですが、日本人は下船する前に綺麗な服に着替えていたのです。なぜなら、外国に行くのに正装しないと失礼だと思っていたんですよ。俺が若い時にリベルダージをサンダルで歩いていたら、日本移民の老人に『こんな格好して日本人が歩くな。恥だろ!』と怒られましたね」(吉永氏、以下同)
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日本移民の理想と現実
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旅行作家、旅行ジャーナリスト。著書の『ブラックロード』シリーズは10冊を数える。近著に『ウクライナに行ってきました ロシア周辺国をめぐる旅』(彩図社)がある。人生哲学「楽しくなければ人生じゃない」

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ヤンキー記者、南米を行く
元暴走族副総長で少年院生活を送った著者が、なぜか“南米武者修行の旅”へ…。その後、紆余曲折を経てブラジル『サンパウロ新聞』記者として活躍する元ヤンキーの感動と笑いのノンフィクション!
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