更新日:2023年05月15日 13:11
エンタメ

<純烈物語>『涙の銀座線』のPVを見せられた時、 後上翔太は痔のCMかと思ったが口には出せなかった<第24回>

ジャニーズ? EXILE!? そんな急にプロでやるなんて

「ジャニーズ? EXILE!? 待て待て待て。なんの興味もない世界だけどそんな急にプロでやるなんて、無理に決まっていることぐらいは俺だってわかるよ!」  次のセッティング……つまりは酒井と初めて会う日までに、どうやって断るか頭を巡らせた。確かに、絶対断れない先輩からの話ゆえネクストにつながったわけで、会ったこともない人物にいきなり大風呂敷を広げられたら席を立っていただろう。  とりあえず、この人たちがやろうとしているのはどんなものなのかと思い、当時はスマホがなかったのでパソコンで検索。主なムード歌謡の歌手の一番下に鼠先輩とムーディ勝山があった。  なるほど、こういうことを自分もやるんだな。「チャラチャラポッポ」と言っていればいいなら、まあ俺でもできるか。無理だ無理だと構えていた後上の気持ちを変えたのは、酒井よりもむしろ鼠先輩とムーディ勝山だった。 「リーダーが言っていたカバン持ちや靴磨きというのは、デビューしてからの話で。それまでの2年半ぐらいはニートでした。週一のレッスンしかやることがないのに、メンバーとしてのポジションを与えられているから好き勝手はできない。学生時代のアルバイトの貯金を切り崩していたけど、それも底をついたらココイチの五反田山手通り店でバイトをしていました。  そこはデビューしてからも続けていたんですけど、半年ぐらいするとファンの人たちが来るようになって、カレー1杯で4時間ぐらい粘られるようになったから『おまえがいると迷惑だ』とやめさせられました。今だったら『恐縮ですがおやめください』と言えるんでしょうけど、当時はそういうタイプじゃなかったんで。そんなだったから、雑用の方がなんの違和感も抱かずにできましたね」  社会経験がないままの丁稚生活だが、こういう形であるにせよ純烈は就職先だったため、自分の居場所だけは確保しようとの姿勢はあった。ほかにできることがないのだから、それにはこれをやる必要がある。なんらかのモチベーションを持って続けるのではなく、他の選択肢などなかったのが実情だった。  やらされている感もないので辛いとは思わなかったが、他の大卒で就職した人間との決定的な違いは無給であること。そんな息子の生活を、親が歓迎するはずもない。 「大学、やめるから。以上!」と一方的に通告し、話し合いの場を設けぬようにするため家を出た。デビューを決めれば少しはいい顔をするだろうと、そのタイミングで戻りCDを見せ「こういうのが出ちゃったんだから、もうやめられない」と押し切ったら、計算通り大きな争いとはならずに済んだ。
次のページ right-delta
アルバイトができなくなり親のスネをかじる
1
2
3
(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxtfacebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売

純烈物語 20-21

「濃厚接触アイドル解散の危機!?」エンタメ界を揺るがしている「コロナ禍」。20年末、3年連続3度目の紅白歌合戦出場を果たした、スーパー銭湯アイドル「純烈」はいかにコロナと戦い、それを乗り越えてきたのか。

白と黒とハッピー~純烈物語

なぜ純烈は復活できたのか?波乱万丈、結成から2度目の紅白まで。今こそ明かされる「純烈物語」。

記事一覧へ
おすすめ記事