<純烈物語>「斬新すぎる……」デビュー前の純烈にレコード会社マネジャーが抱いた困惑<第33回>
その後、これぐらい歌えるようになったなら番組に出られると思いメジャーな歌番組に出演の話を持っていく。なかなか興味を持ってもらえなかったが「おまえがそこまで言うなら一回見にいって、それで判断する」とプロデューサーに言われた。
銀座の山野楽器JamSpotにおける購入者限定のキャンペーンイベントだったが「なんだあれ、唄はヘタだし踊りも揃ってない。これじゃあ歌番組を演出する立場としてどう使ったらいいか思い浮かばないな」と、評価は厳しかった。要は自分がひいき目に見ていただけだったことを、新宮は気づかされたのだ。
現実を味わいつつ、特別に意識せずとも新宮は純烈のために考え、動くようになっていた。その後、NHK歌謡コンサートが『うたコン』に模様替えし、それまでの演歌・歌謡曲だけでなくポップスやアイドルなど他のジャンルも出演させる方針となる。
「純烈は歌えますでも踊れますでもなく、彼らの一番のポイントはお客さんを喜ばせること。大阪や名古屋へキャンペーンにいった時にエスカレーターを上がっていっちゃったり、衣装のまま電車に乗ったりしたという話を聞いていて、この人たちはにぎわいというか、盛り上げに関しては長けているから、ちゃんと唄としてお届けするポジションではなく、ワーッと盛り上げる役どころだったら狙えるチャンスがあると思ったんです。
うたコンのスタッフにも注目してくれた人がいて、こういうのならこう使えばいいんじゃないかという意識を持ってくれまして。じゃあ、一回使ってみるかということで出られるようになった。そこからですね。演歌の世界には、演歌・歌謡曲を聴いて育ってこなかった僕でもいい唄だなとか、歌手として素晴らしいというものは感じるんですけど、この世界はフザケたことをできないというか、真面目な人たちばかりなんです。そんな中で純烈は違った」
その時点では酒井がどういうつもりでいるのかまでは見えなかったが、演歌・歌謡曲の伝統に束縛されることなく活動している彼らが刺激的に映った。異端ならではの面白さが、新宮の琴線に触れたのだ。
出逢った時点では、社内でアーティスト担当というシステムが確立されていなかったが、その制度が導入されたタイミングで新宮は「純烈をやらせてください!」と手をあげた。良くも悪くも変わらぬ価値観の中で、将来このグループがこのジャンルに新風を巻き起こしてくるのではという期待と、そして「彼らと一緒にいれば、日々を楽しく過ごせるなという楽観的な考え」がそうさせたのだった。
撮影/ヤナガワゴーッ!(すずきけん)――’66年、東京都葛飾区亀有出身。’88年9月~’09年9月までアルバイト時代から数え21年間、ベースボール・マガジン社に在籍し『週刊プロレス』編集次長及び同誌携帯サイト『週刊プロレスmobile』編集長を務める。退社後はフリー編集ライターとしてプロレスに限らず音楽、演劇、映画などで執筆。50団体以上のプロレス中継の実況・解説をする。酒井一圭とはマッスルのテレビ中継解説を務めたことから知り合い、マッスル休止後も出演舞台のレビューを執筆。今回のマッスル再開時にもコラムを寄稿している。Twitter@yaroutxt、facebook「Kensuzukitxt」 blog「KEN筆.txt」。著書『白と黒とハッピー~純烈物語』『純烈物語 20-21』が発売
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