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還暦目前とは思えぬ美しさ…元ピチカート・ファイヴの野宮真貴の60年間

 1990年代の“渋谷系ムーブメント”の先頭に立ち、J-POPの新しい可能性を提示したピチカート・ファイヴ。特に、渋谷系のアイコン的存在だった3代目ボーカリスト・野宮真貴は、歌詞の世界観に合致した色気たっぷりの歌声だけでなく、そのファッションや佇まいなど、ビジュアル面でも見る人を魅了した。
野宮真貴

とても還暦には見えぬ若々しさだ(写真は野宮真貴公式サイトより)

 そんな野宮真貴は、自身が還暦を迎える3月12日と翌13日に、記念のライブを開催予定。ゲストにはクレイジーケンバンドの横山剣、鈴木雅之と、そうそうたる顔ぶれが集合するというが、そもそも野宮が60歳になるという事実に、衝撃を覚える人も少なくないのではないか。  そこで今回は、渋谷系の女王・野宮真貴が歩んだ60年間の道のりを振り返ると同時に、彼女の変わらぬ魅力を再確認していきたい。

音楽とオシャレが大好きだった少女時代

 1960年、北海道に生まれた野宮は、幼少期から音楽とファッションが大好きだった。テレビで見ていた『ステージ101』(NHK)のメンバーへの憧れが、歌手を志すきっかけとなったのだそう。
ピチカート・ファイヴ

野宮はグループサウンズも大好きだったそう(写真はピチカート・ファイヴ『THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001』CDジャケット)

 中学に入学するとロックミュージックに傾倒し、ファッションも、Tシャツやデニムといったロックスタイルにシフトチェンジ。高校時代には、女子校の友人らとバンドを結成する。しかし、当時の野宮は「自分の声はロック向きでない」と感じていたようで、担当パートはギターだった。  やがて野宮が高校を卒業し、専門学校に進学した頃、音楽シーンではニュー・ウェイブと呼ばれるミュージシャンたちが次々と登場。すると野宮は「これなら私にも歌える!」と思い立ち、パズルというテクノポップバンドを組んで、ボーカルを担当するようになったのだ。

プロへの道を進むも、生活は困窮…

 パズルは数々の音楽コンテストで優勝し、レコード会社からも声がかかっていた。しかし、デモ音源まで作っていても、なかなかデビューには至らなかったという。
ピンクの心

『女ともだち』は資生堂「シャワーコロン」CMソングだった(写真は同曲が収録された野宮真貴『ピンクの心』CDジャケット)

 そんなあるとき、友達のバンドのレコーディングにコーラスで参加した野宮は、ソロデビューの話を持ちかけられる。仲間には悪いと思いながらもOKし、1981年、ムーンライダーズの鈴木慶一をプロデューサーに迎え、シングル『女ともだち』でソロデビューを果たした。  しかし思うように売り上げが伸びず、契約は1年で終了。ポータブル・ロックという新グループを立ち上げ、鈴木が主宰する水族館レーベルから再デビューすることになった。ちなみに、当時は月収10万で家賃5万の家に住んでおり、生活はかなり厳しかったのだとか。

ついにピチカート・ファイヴに加入!

 1989年、野宮はついにピチカート・ファイヴの仕掛け人・小西康陽と出会う。ポータブル・ロックのメンバーがピチカート・ファイヴのレコーディングに参加するとのことで、野宮も同行したところ、当時ピチカート・ファイヴの2代目ボーカリストだった、現ORIGINAL LOVEの田島貴男とデュエットすることになったのだ。
オーヴァードーズ

8thアルバムではロックをテーマにしたという(写真はピチカート・ファイヴ『オーヴァードーズ』CDジャケット)

 そうこうしていると、田島はORIGINAL LOVEの活動に専念するためにピチカート・ファイヴを脱退。すでにピチカート・ファイヴのサポートボーカルとして活躍していた野宮は、小西から「これからはメインで歌ってほしい」と電話で依頼され、正式メンバーとなった。  小西は野宮の歌声に惚れ込んでおり、彼女の魅力を存分に活かせる曲づくりを意識していたという。ビジュアルイメージにおいても、「彼女が中央にいてくれれば何をやっても大丈夫だろう」と思っていたそうで、相当強い確信を持って野宮を誘い入れたのだろう。
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国内外にピチカート旋風を巻き起こす
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