仕事

外出禁止のテレワークが個人の精神を蝕む日も近い/古谷経衡

密室と人間の闘いの歴史は長い

 人間が密閉空間に長時間閉じ込められることにより、どのような心理変化が起こるのかという研究は、著名なところではスタンフォード監獄実験がその筆頭である。被験者集団から任意に看守役と囚人役を抽出し、疑似監獄に閉じ込める。最初のうちは和気藹々としているが、しばらく経つと看守役の被験者は攻撃的になり、囚人役の被験者は被害感情と抑圧意識に苛まれる。密閉空間における長期滞在は、正常な人間の精神をマヒさせることがはっきりとわかっている。  大航海時代、香辛料や鉱産資源を求めて大海を長期間航海した遠洋帆船は、現代のように確固たる補給地もなく、またその主推進力が風力であったため、何か月も狭い船室に大勢の人間が密閉された。そこで頻発したのが船員の反乱である。密閉空間で極限状態に追いやられた下級船員が、船長らの意見を無視して航路を変更したり、場合によっては船員同士で殺戮に至った。  そうしてクルーが船のコントロールを失い、積み荷を満載しながら海に没した、というケースは少なくなかった。当時の遠洋帆船は、常にこの船員反乱の危惧を有したため、ほとんどの船で船長側の部屋や倉庫に反乱に備えた武装が積載してあった。  或いは90年代から研究されているのが、砂漠地帯に密閉空間(部屋)を作り、そこに疑似クルーを年単位の長期間滞在させるという実験である。これは何の目的かと言うと、将来における火星探査である。実のところ、現在の科学水準を以てすれば、人類が火星に到達するのはそう難しいことではない。しかし火星への片道航路は最低でも10か月程度とされ、狭い宇宙船の中で男女のクルーが長期に密閉空間に置かれる。  火星への旅で最も未知数なのは、大航海時代の遠洋帆船と同じく、密室で起こるクルーの精神的抑圧を起因としたサボタージュや計画遅延である。であるからNASAは、現在でも砂漠地帯でこの種の実験を行い、むしろ火星への化学推進力の如何より、人間の精神の悪い方向への変化をコントロールする術に躍起となっているのだ。

テレワークのストレスを解消するのは逆説的ながら移動

 ことほど左様に、テレワーク最大の敵とは、作業効率の高低ではなく、人間の精神力の劣化である。私が十年テレワークをして痛感した最大の課題も、代り映えしない日常風景にどうやって色彩を与えるのか。その一点に尽きる。テレワークは時間の感覚を鈍らせ、有形無形の受信情報の低下により、何の対策もしなければすぐに抑鬱傾向が顕著となる。パニック症と併発して鬱もやっている私にとって、如何にこの抑鬱傾向を軽減させるかは、実をいうと人生最大の課題と言っても過言ではない。  そしてそれは、結局のところどのような処方で軽減されるのかというと、本末転倒であるが移動の採用である。仕事場をラブホテルや旅館に移す。目的はないが車で遠隔地まで走ってただ帰ってくる。外食、旅行を頻繁に行う。ぶらり散歩やウインドーショッピング、独り居酒屋も良い。こういうことをしないと、本当に精神が参ってしまうのである。  とはいえ、外泊や旅行はカネがかかるから、自宅(密室)での作業とそれの案分を天秤にかけ、破綻しないように慎重に計量する。10年テレワークをやっているとさすがにコツがつかめるようになるが、結局のところ完全なるテレワークというのは無理だという結論に達する。私たちはインドや南米の香辛料を求める探検家ではないし、火星有人探査計画のクルーではない。人間は適度に移動しないとダメになる生き物だ。出勤自粛をしてテレワークを推奨し、姑息的にそれを導入するのは賛成だが、テレワーク素人が一朝一夕にそれを長期間こなすのは至難の業である。  今次コロナ禍によって、オフィスでできる作業が自宅でできるのなら、コロナ禍が去った以降もテレワークでよいのではないか、という楽観論も耳にするがそれは素人の考えである。コロナ禍がさったのなら、労働者は速やかに職場に復帰し、通勤体制に服するべきである。またぞろストレスの日々がやってくると思うが、実は職場への移動がなくなった時、人間は本当のストレスに苛まれるのだ。テレワークこの道10年の私が言うのだから間違いはない。 <文/古谷経衡>
(ふるやつねひら)1982年生まれ。作家/評論家/令和政治社会問題研究所所長。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。20代後半からネトウヨ陣営の気鋭の論客として執筆活動を展開したが、やがて保守論壇のムラ体質や年功序列に愛想を尽かし、現在は距離を置いている。『愛国商売』(小学館)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか』(晶文社)など、著書多数
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