更新日:2020年09月08日 16:43
ライフ

「貧困は自己責任」だと思っていませんか?/吉川ばんび

わけあり家庭に生まれた人たち

 金銭の略取や暴力被害があっても、たまたま被害者と加害者に血の繋がりがあるというだけで、警察はほとんど関与してくれない。殺人にでも至らないかぎり、実質「家庭の問題は、たとえ犯罪行為であっても家庭で解決すること」を強いられる。  日本には、家庭に問題を抱える人たちを支援する公的制度がない。こうした人々は実家や両親、きょうだいと疎遠になっていたり絶縁していたりすることも少なくないし、経済的な後ろ盾が一切ないため貧困に陥りやすい傾向にある。家賃が支払えないほど困窮していても、帰る実家もなければ助けてくれる家族もいない。  特に機能不全家庭に育った人であれば、余裕をもって自活できるほどの経済力がつく前に、若くして逃げるように家を飛び出していることがある。その場合、スタート地点からすでに家計は火の車で、就職先の労働環境が劣悪でも給与が低くても転職する時間的・精神的余裕がなく、将来を見据えて職を探すことも容易ではない。  さらに厄介なのは、親きょうだいから継続的にお金の無心を受けているケースだ。自分自身の生活を支えるだけでも精いっぱいの状況に、自分ではコントロールできない予測不能な出費が幾度となく重なる。 「どうして縁を切らないのか」と思うかもしれないが、生まれてからこれまでの人生で育まれた家族への執着や愛着をすべて断ち切って二度と関わらないと決断できる人間は、そうそういるものではない。少なくとも私は、こうした辛く苦しい決断を下せずに、いつ叶うかもしれない関係修復を願って家族に支援を続ける人を人間らしいと思うし、それを「自己責任」だとは思わない。  けれども、日本にはまだ家族同士で助け合いができない人たちを救う仕組みは事実上、存在しない。

発売直後からSNS中心に反響を呼び、発売10日足らずで重版が決定

「見えざる貧困」

 メディアによって極端な貧困像が作り上げられたせいで、日本には自らが貧困に陥っていることを自覚できない人たちが数多く存在している。あるいは、生活に困窮している自覚があっても「貧困家庭である」と社会からみなされず支援が受けられない人々も合わせれば、その数は想像を絶すると予想される。  便宜上こうした隠れがちな、一見「普通」に見える人が陥る貧困の問題を「見えざる貧困」と呼ぶ。  ほとんどの人は、両親が揃っている家庭の子どもを見て「経済的に困窮しているかもしれない」というイメージとは結びつきにくい。貧困家庭を描いたドラマなどでも、父か母のどちらかひとりが「男手ひとつ」「女手ひとつ」で子どもを育て上げるのが王道パターンだろう。  確かに両親が揃っている家庭は、そうでない家庭に比べて貧困率が大幅に下がる。しかし、例えば両親のどちらかが何らかの理由で働かず世帯所得も低い場合、ほとんどの家庭がその事実を隠そうとする。  どんな事情があったにせよ、貧困であることは「恥ずかしい」と考えているからだ。子どもが周りからどういった目で見られるかを考えれば、なおさらだろう。  噂になることを恐れて、生活保護などの支援を受けようともしない。「家庭の問題は、家庭だけでなんとかしなければならない」と考えてしまうため、外からは「見えない」のだ。 「見えざる貧困」は当事者が助けを求めない(求められない)ために、特に解決が難しい問題である。「自力で解決できる」と考えていても一向に貧困から脱出できず、焦燥感にとらわれて冷静な判断もできなくなる。もがけばもがくほど、沼にどんどん体が沈んでいく。 「まだ大丈夫、何とかできる」が致命傷になることさえあるのだ。
1991年生まれ。フリーライター・コラムニスト。貧困や機能不全家族、ブラック企業、社会問題などについて、自らの体験をもとに取材・執筆。文春オンライン、東洋経済オンラインなどで連載中。著書に『年収100万円で生きる-格差都市・東京の肉声』 twitter:@bambi_yoshikawa

年収100万円で生きる-格差都市・東京の肉声-

この問題を「自己責任論」で片づけてもいいのか――!?
1
2
年収100万円で生きる-格差都市・東京の肉声-

この問題を「自己責任論」で片づけてもいいのか――!?
おすすめ記事