感染症の専門家ばかりだった日本の構造的問題
日本ではどうして公衆衛生の専門家が目立たないのか。おそらく日本の医療行政や医科大学における
「臨床優位」の状況があるためだと言われている。
欧米では医師の養成はメディカルスクールで、公衆衛生の専門家はスクール・オブ・パブリックヘルスで、それぞれ研究と教育が行われているという。
日本では伝統的に公衆衛生学の分野が弱いとされ、医学生にとって公衆衛生はあまり人気ではない。それはおそらくは就職先や活躍の場などが限定されていることが関係しているのではないだろうか。
日本を代表する行政学者である森田朗・津田塾大学教授の次の意見は腑に落ちる。
「日本で感染症の専門と言えば細菌やウイルスの研究、症状の研究やワクチンの開発をされている方が多く、パンデミックの時に、国民の行動や生活、社会活動をどう統制するか、人間の行動や心理面への洞察も含めて、社会全体としてダメージを最小化するという公共政策の観点から発想できる人は多くない」(『中央公論』5月号「緊急事態の政治学」)
少なくとも、感染症の専門家と公衆衛生の専門家がバランスよく政府の専門家会議にも、テレビのコメンテーターにも含まれていて然るべきではないかと思う。だが、そうした人材を見つけること自体に困難があることと、日本の感染症対策が
「国立感染症研究所」主導で行われていることなどの構造的な問題があるように思えてならない。
また、政治家の資質、適材適所の人材の起用という点においても、台湾の状況は我々に多くの思考すべき問題があることを示唆している。ただし、議会制民主主義を採用し、ほとんどの大臣が政党政治家から起用される日本と、政党政治家の大臣への起用は限定的な台湾との比較には慎重にならないといけないことは言うまでもない。
ただ、適性が明らかにとぼしい政党政治家を省庁のトップに起用し続け、それが一種の論功行賞や派閥政治の材料となっている日本の政治は、少なくとも専門性を有する分野に対しては、一定の知見を求める人材を配置するように変わっていってほしい。
また新種の感染症への対策においては、台湾のように公衆衛生の専門家をトップに起用し、その下に感染症対策、医療行政対策、社会政策対策、経済政策対策、リスクコミュニケーション対策などの人々が集いながら、総合的に政府に提言をすることが望ましい。
今回の日本のように感染症の専門家中心になれば、未知のウイルスが相手である以上、その判断はどうしても医療重視、あるいは病院重視にならざるを得ない。もちろんそうした論点も重要ではあるが、今回、日本で人々が不安や不満に感じたのは、マスクや休業補償、PCR検査など、感染症そのものとは異なる分野であった。その点への目配りを考えれば、今回の日本の専門家会議は
単一性が高過ぎたし、公衆衛生やその他の専門的な知見を存分に活用できる布陣になっていなかった。
台湾では新型コロナウイルスからの出口が見え始めた5月15日、アジアで初めてとなる
公衆衛生師法が可決成立した。公衆衛生を専攻した若者に受験資格を与え、公衆衛生上の緊急事態が発足した時、政府は公衆衛生師を指名して対応に当たらせることができる。彼らは普段は医療機関や介護施設、行政省庁などで働きながら、環境・健康リスクの解決や感染経路の調査などの業務を行う。
台湾大学公衆衛生学院の詹長権教授は、法案の成立を喜んでこう述べた。
「今回のような大規模感染症の流行は『第三次世界大戦』と同じであり、人類は新型コロナウイルスがもたらす新常態(ニュー・ノーマル)を受け入れなくてはならない。『公衆衛生師法』の成立もまた新常態の一つだ」(TAIWAN TODAY ,5月18日)
SARSの頃は、台湾の衛生部門の予算はたった3%しか公衆衛生に使われていなかったという。当時衛生署長だった陳建仁副総統は、「長年、台湾は
重医療軽公衛(医療重視・公共衛生軽視)」の問題があったと指摘し、公衆衛生体制の強化を行う伝染病防治法の改正に着手した。そうした積み重ねがあって、台湾は今、世界最先端の公衆衛生国家に向けて、さらに先に進もうとしている。