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戦力外で医学部受験を決めた元ベイスターズ・寺田光輝の決意

寺田光輝

医学部を目指す元ベイスターズの寺田光輝さん

筑波大学卒業後にBCリーグ入りを決意

 紆余曲折はあったものの、無事、筑波大学に入学した寺田だったが、実質2浪のハンデはもちろん、能力的な部分も含めて新人有力選手との差は誰の目にも明らかだった。筑波大学といえば、国公立で唯一、1987年の明治神宮野球大会に優勝しており、首都大学リーグ1部優勝4回、2部優勝12回、プロには7人輩出するなど国公立の雄であり、当然、甲子園組も入学してくる。  1年生の間は、身体造りを徹底的にやり、試合になるとスタンドで応援し、ベンチに入ることさえなかった。そして2年生の9月には、痛めていた肘を治すためトミー・ジョン手術に踏み切った。それは将来を見越しての手術でもあった。3年生の秋にようやくベンチ入りし、4年生では公式戦12試合中継ぎで投げ1勝1敗に終わり、大学野球生活を終えた。  さすがにこの成績ではプロは無理だと諦め、地元の企業に就職しようとしたとき、ストップをかけたのが筑波大の奈良隆章コーチだった。「挑戦してみろ」と背中を押してくれたことで、BCリーグの石川ミリンスターズに入団。オーバースロ―からサイドスローに転向したことで球威が格段に増した。そして、2017年。DeNAベイスターズからドラフト6位で指名され、念願のプロ入りを果たしたのである。 「BCリーグに入団するときも、親は反対も賛成もせず、ただ温かく見守ってくれました。NPBのスカウトに注目され始めたときに『ほんまにプロへ行けるのか?』と父がぼそっと言ったくらいですね。一方でじいちゃんは『おまえ、ちょっとプロを舐めているんじゃないかぁ。独立リーグでやるのはいいけど、自分の中で早く納得して区切りをつけろよ』と言っていたんですが、プロに入るときは『いやぁ~参りました!』とことのほか、喜んでくれました」

医者一族から生まれたプロ野球選手に一族は驚愕

 医者家系の寺田家からプロ野球選手が誕生したことは一族を驚愕させ、その快挙に湧いた。高校3年夏にプロを意識し、艱難辛苦の道程の末、念願が叶った寺田は希望を胸にプロ野球の門戸を叩いた。ここまでは、漫画にでも出てきそうストーリーだが、現実はそう甘くはない。寺田はたったの2年間で戦力外通告となってしまったのだ。 「1年目にヘルニアの手術をし、球団側も了承してくれたのでそれなりの期待感が込められていたんだと思います。2年目は、年齢も年齢ですから背水の陣でしたね。後半から調子は上がってきてはいましたが、身体は限界に近い感じでしたのでクビになるのはしょうがないと思ってました。  ばあちゃんなんかは、僕の身体が弱いことを重々知っているのでプロ入りのときも『身体壊すくらいなら早く辞めなさい』と言ってくれたので、クビになったときはむしろ喜んでくれました。正直、クビになってホッとした感じもあります。変に残されてズルズルやって次のステージに遅れるよりは、ここでおしまいって言ってもらったほうがありがたかったです」
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医師としてアスリートを診たい
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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