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戦力外で医学部受験を決めた元ベイスターズ・寺田光輝の決意

戦力外通告の3日後には医学部受験を決意

 寺田の腰は限界に来ていた。日常生活にも支障が出るほどの痛みが走り、野球どころではなかった。野球界との決別をつけるケジメとしてトライアウトを受ける際も、腰の痛みにより万全な調整がまったくできなかったという。最後の最後まで、腰の痛みに悩まされたプロ生活だった。そしてクビを宣告されてから2、3日後には医学部を受けようと決断した。即断即決だ。 「まだ、受かってもいないので専門的なことはわかりませんが、アスリートを診たいという思いはあります。怪我の部分を外科的ではなく、内科的アプローチができるのではないかと考えています。幸いにも僕だったら選手側の気持ちを一番汲み取れるのではないかと思っています。自分の経験談から言うと、怪我が完治してなくても強い焦りのためプレーしてしまうことがただあると思うんです。これまでにも同じ箇所を何度も怪我する選手をいっぱい見てきて、やっぱり完治していないのではとずっと疑問に感じていました。対処療法だけでなく、内科的に何かできるのでは……、あくまでも僕の仮説なんですけど」  医者になったら、自分が怪我で苦しんだ分、怪我をしているアスリートを一日でも早く復帰させたい思いがある。そのためにはどういうアプローチが最善なのか。寺田は、環境の整備も含め、真の意味でアスリートファーストの治療をしていきたいと考えている。

今は世間に顔向けできる立場ではない……

「世間では東大に入るよりプロ野球界に入るほうが難しいと言われてますが、僕にとっては東大に入るほうが難しいです」  凡庸な人間にとっては、プロ野球界に入るとか東大に入るとかリアルに感じることなどない。一度はプロ野球界に身を置き、現在、医学部を目指して受験勉強の追い込み中の寺田だからこそ言える言葉でもある。 「誰にも言ってないはずなのに記者さんから『医学部を受けるんだってね』と言われたときは、びっくりしました。嘘を付く必要もないので、そのまま取材を受け、いろいろと記事に出ることであえて退路を断った感じです。本当は、こっそりと受けたかったんですけど(笑)。でも記事に出て感じたことは、応援してくれる人たちがいる反面、アンチの人たちもいます。思うに、アンチの人たちって自分が充実してないから、他人をバッシングするようなことをわざわざ時間を使って書くんだろうなと。こういう人たちが幸せになるには、どうしたらいいのだろうとか考えますね」  生命の尊さを顧慮し、人間の幸せの意味を追求していく寺田の考えは医者を志す者の視点以上だと私は感じた。医者家系にして名士の寺田家のDNAは、きちんと受け継がれている。 「僕には時間がありません。正直、契約金を貰って困窮するほど生活に困っているわけではないし、チャレンジする期間があると言っても、今は世間に顔向けできる立場ではないので必死です。僕の中では、医者になるのか死ぬかのどっちかしかないんです。野球をやっているときもそうだったんですけど、諦めが悪いんです。だから、今が勝負なんです」  退路を断ち、揺るぎない覚悟を持った男は強い。高校3年夏に抱いたプロ野球選手という夢を叶えた寺田だったら、恵まれたDNAも手伝い、きっと医者になれると信じている。後は、どういった医者になっていくかだ。そのためにも、ぜひ春には吉報の知らせを聞かせてほしい。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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