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元プロ野球選手として初の医師を目指す男の軌跡

日本の元プロ野球選手で医者になった者はいない

寺田光輝

NPB出身の元プロ野球選手として初の医師誕生に向けて受験勉強中の寺田氏

 日本プロ野球界は約100年、およそ一世紀の歴史があり、今日まで在籍していた数多のプロ野球選手がその歴史を築いてきた。彼らがグラウンドで残した記録や逸話、伝説は今も語り継がれているが、グラウンドを去ったその後の人生についてはあまり知らされていない。かつては、焼肉屋、スナックといった飲食を手がける者も多かったが、国会議員、大学教授、大企業社長など特権階級的な職業に就いて成功した者も珍しくはない。しかし、数多のプロ野球界出身の元選手で医師になった者はまだ一人としていない。  メジャーを見ると、かつて広島初優勝(1975年)の主力だったゲイル・ホプキンスが整形外科医になったのは有名で、ホワイトソックスで準レギュラーとして活躍した後、当時のルーツ監督の誘いで広島に入団。試合がない日は、広島大学医学部の聴講生として研究室で勉強し、練習の合間でも医学書を読んでいたという逸話が残っている。  近年ではカージナルスの一塁手だったマーク・ハミルトンが2014年引退後、ドナルド・アンド・バーバラ・ザッカー医科大学へ入り、昨年4月に卒業した。現在は、ニューヨークのメディカルセンターで勤務している。

戦力外通告の3日後に医学部受験を決意

 そして、日本プロ野球界においても遂に医師を志す人間が現れたのだ。2019年、DeNAから2年間で戦力外宣告を受けた寺田光輝(29歳)が今冬、大学の医学部受験を試みている。 「祖父の代から医者家系でもあり、長男の自分としては頭の片隅に医者というのがあって、戦力外通告された2、3日後には、医学部を受けようと決意しました」  父方の祖父と叔父は産婦人科医、父・晃氏は三重・伊勢市で内科・胃腸内科を診療科目とした「寺田クリニック」を開業し、父のいとこは外科医という、まさに医者家系の長男として生まれた寺田は、小中学校とも成績が良く、三重県の公立御三家の進学校伊勢高に入学した。 「両親から勉強をしろと言われたことは一度もありません。野球も自由にやらせてくれましたし、進路についてもああだこうだと言われなかったです。今思えば、子供の考えをきちんと尊重してくれたんだなと思います。父も通っていた地元の進学校の野球部に入りました。甲子園には一度も出ることなく高校3年間を終えました。  悔いがあるといえば、高校3年最後の夏、三回戦に先発で投げてボコボコに打たれて負けたんです。寺田で負けたらしょうがない、そんなふうに思われるほど練習をやってなかっただけに、チームメイトや応援してもらった周りの人たちに心の底から申し訳なく思いました。過ぎ去ったことなので穴埋めできないんですけど、僕がプロになることで“あの寺田と一緒にプレーした”とチームメイトが周りに自慢したり、一緒にプレーしたことを誇りに感じてもらえたらという思いが、プロを志すきっかけとなりました」
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国立大進学と仮面浪人の日々
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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