更新日:2021年05月21日 21:00
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東海林のり子が語気を強めた「宮崎勤事件に振り回された平成の始め」

宮崎勤の愉快犯に対する静かな怒り

東海林のり子2 そんなやり取りがしばらくの間続いた。何度も身代金の受け渡し場所の変更を受け、数度のやり取りを経た後のことだった。東海林の述懐を聞こう。 「何度目かのやり取りをしていたら、突然、受話器の向こうから、『ギャーッ』という声が聞こえました。何事が起きたのかと驚いたけど、そのすぐ後に、『無事、確保しました』と聞こえてきました。私と電話をしている間に、警察が犯人の家を特定して電話中の犯人を取り抑えたんです」  電話の主は、実際の誘拐犯ではなく、事件に便乗しただけの愉快犯だった。 「犯人の家族に借金があって、それで便乗することを計画したということでした。その後、犯人サイドの弁護士から示談が申し出されました。当時のフジテレビの部長は、私の身を案じてくれて“示談に応じた方がいいのでは?”と言ってくれました。でも、私は犯人のことが本当に許せなかった。あの頃の私は、すごく正義感に燃えていたから」  拘置所にいる犯人からは謝罪文が届いた。誤字、脱字だらけのたどたどしい文字を見ながら、「心から反省して、しっかりと更生してほしい」と東海林は願ったという。 「反省文は届いたけど、やっぱり私は犯人を許すことができませんでした。日本中がこんなに心配している事件に便乗するなんて、絶対に許せない。だから私、上申書を書いたんです。『どうしても許せないから、拘置所に入って反省してもらいたい』って。周りからは、犯人に逆恨みされるのでは? って心配されたけど、ちっとも怖くなかった。もしも、私の目の前に現れても、一喝しようと考えていたぐらいでしたからね」  一連の騒動からおよそ30年が経過した今でも、東海林の語気は強かった。彼女が口にしたように、そこには尽きることない「正義感」が垣間見えるようだった。

「10万人の宮崎勤」騒動の誹謗中傷に今も……

 こうした混乱を経て、1989(平成元)年7月23日、宮崎勤が現行犯逮捕された。その後、取り調べが進むにつれて、犯人の「異常性」ばかりが強調された報道が続いた。公判において、「犯行は覚めない夢の中でやった」と語り、「ネズミ人間が現れた」と発言。「オレの車とビデオを返せ」と口にしたことも、大きく報道された。 「逮捕後の取材を通じて、宮崎の謎はより深まりました。正常にしゃべっている部分と、異常な言動。それは真実なのか、それとも偽装なのか? 私の中のモヤモヤはますます大きくなるばかりでした」  この頃、日本中が「宮崎事件」で騒然としていた。前述したように、東海林もまた、この事件について連日連夜、懸命な取材を続けていた。彼女が50代半ばの頃の話だ。  そして、事件からかなりの時間が経過した後、東海林の身の回りにまたしても「ある騒動」が巻き起こる。宮崎勤が逮捕された直後のコミックマーケットにおいて、「ここに10万人の宮崎勤がいます!」と、東海林がリポートしたというウワサがインターネット上で一気に拡散したのだ。 「それからずいぶん時間が経ってから、『東海林さんって、コミケの現場で《10万人の宮崎勤がいます!》って言ったんですか?』と聞かれて、そんなウワサが流れているということを知りました」  この一件について、東海林は「言っていません、言うはずがありません」とキッパリと否定する。しかし、一度拡散してしまった根拠のないウワサを完全に払拭することは不可能だ。東海林は今、まさに「デジタルタトゥー」被害の渦中にある。 「私がそんなことを言うはずがありません。第一、コミックマーケットに行ったこともないのに。でも、インターネット上で、そうしたウワサが文字になると、まるで本当にあったもの、《事実》になってしまう。そして、それを読んだ人がそのウワサを信じてしまう。いまだに拭いきれていないのが、本当に悔しい……」  2008(平成20)年6月17日、当時の鳩山邦夫法務大臣の下、東京拘置所において宮崎勤の死刑が執行された。遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が、宮崎の口から語られることは、ついに最期までなかった。 「自身の障害、その障害に気づいていなかった父への恨み、溺愛する祖父の死、引きこもり生活……。彼は、さまざまな要因が絡み合って誕生したシリアルキラー(連続殺人犯)でした。昭和の最後に起こった犯罪史上極めて残虐な事件。そして、平成のはじめにかけての公判取材。事件が動くたびに、必死に現場を駆けずり回った日々でした。私のリポーター人生において、決して忘れることのできない事件です」  50代も終わろうとしていた。それでも、来るべき60代を前にしてもなお、気力、体力は充実しており、リポーターという仕事に生きがいと誇りを見出していた。しかし、60歳を迎えた頃、リポーター人生終焉のときはあっけなく訪れる。その契機となったのは、1995年1月17日、阪神淡路大震災だった――。 (第4回に続く) 取材・文/長谷川晶一(ノンフィクションライター)撮影/渡辺秀之
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
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