更新日:2021年05月08日 12:00
エンタメ

「現場の東海林です!」87歳になった東海林のり子、リポーター人生の原点を語る

 昭和・平成を駆け抜けた「ワイドショー」はいまひとつの転換点を迎えている。ときに事件、事故、スキャンダルの現場に向かい、人々の喜怒哀楽を伝え、時代の節目に立ち会ってきたリポーターたちも、同時に新たなステージへと向かおうとしている。果たして芸能リポーターという仕事とは何だったのか? 令和のいま、当事者たちの証言をもとに紐解いていく――。

<東海林のり子・第1回>

東海林のり子1「現場の東海林です!」  事件リポーターの第一人者である東海林のり子の決め台詞だ。しかし、意外なことにこのフレーズは事件現場では一度も使われたことがないという。 「このフレーズはバラエティ番組で生まれたものなの。小堺一機さんが司会の『いただきます』ってあったでしょう。あの番組のワンコーナーとして、私が架空の事件をリポートして、毎回必ず、“以上、現場から東海林がお伝えしました”でシメると、障子がバタンと閉まる。このコーナーが話題となって、それ以来、“現場の東海林です!”が定着したのよ(笑)」  東海林のり子がケラケラと笑う。驚くべきことに、彼女はこの5月で87歳となる。かつてワイドショーで披露されていた巧みな話術、流暢な滑舌、そして若さあふれる美貌は往時のままだった。ワイドショーのリポーターとなったのが40歳のとき。以来、約20年間にわたって、来る日も来る日も事件現場に立ち続けた。  米寿を前にした今、東海林は静かに述懐する。「あの20年間は、とても楽しく、とてもやりがいに満ちていた」と。立教大学卒業後にニッポン放送のアナウンサーとしてキャリアをスタートしてから、60年以上にわたってメディアの最前線で活躍を続けた。テレビの世界に飛び込んでからも、かなりのときが流れた。改めて、彼女のリポーター人生を振り返ってみたい。

大女優・森光子による「意地悪」の真意

 仕事の厳しさを教えてくれたのは森光子だった。かつて、森はフジテレビ人気ワイドショー『3時のあなた』の司会を務めていた。当時すでに大女優だった彼女は「ワイドショーMC」という新たな役割においてもプロフェッショナルだったという。 「放送は午後3時からなんですが、森さんは午前11時には局入りして、スタッフたちと入念な打ち合わせをしていました。当時、新人リポーターだった私も、打ち合わせには参加していました。みんなでわいわい世間話をしているのに、なぜか森さんは私だけあからさまに無視をして、視線を合わせようともしませんでした……」  何も心当たりはなかった。いくら考えても、無視される理由がわからない。初めは「大女優による意地悪」だと思った。しばらくの間は耐えていたものの、やがて感情が爆発する。PD(曜日担当プロデューサー兼ディレクター)に「もう辞めたい」と訴えたが、「気にしなければいいんだよ」と取り合ってもらえない。どうすることもできない、辛い日々が続いた。 「転機が起きたのは1980年に発覚した埼玉県所沢市の『富士見産婦人科乱療事件』をリポートしたときのことでした。自らの利益のために、医師が健康な女性の卵巣を取ったり、必要以上のホルモン注射を投与したりした事件です。この事件の被害者が私の取材に応じてくれました。その日の放送後、森さんが、“東海林さん、よく取材できたわね”って、初めて名前を呼んでくれたんです」  その瞬間、涙があふれそうになった。それまでの嫌な思い出が一気に吹き飛んでいくようだった。 「森さんは決して私に意地悪をしていたんじゃなくて、私自身がプロとしてまだ認められていなかったんだということに気づきました。そこからは、さらに気持ちを込めてリポートしました。それ以降、森さんは私と同じ目線でしゃべってくれるようになったんです」  40歳にして始めたリポーター業、本格的な第一歩を踏み出した瞬間だった。
次のページ
男だらけの現場でできること
1
2
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

記事一覧へ
我がままに生きる。

60年以上に渡りメディアで活躍する、
東海林のり子の半生をまとめた86歳の赤裸々自分史。

おすすめ記事