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元ちとせ・宇多田ヒカルの生歌に衝撃…圧倒的な“個性”の副作用

宇多田ヒカルも…

 アメリカ最大の野外フェス「コーチェラ」に出演した宇多田ヒカルも、同様のケースでした。不安定だった「Automatic」や「First Love」などのパフォーマンス。その音程や声量に、少し残念な気持ちになってしまいました。  確かに、声量の乏しさや不安定な音程をあえて強みとしてパーソナルな歌詞と物憂げな曲調にリンクさせる表現方法はユニークです。筆者もMTVアンプラグドバージョンの「Final Distance」には、何度も心を動かされてきました。  けれども、そうしたアプローチは王道というよりはニッチであって、元ちとせと同様に、“危ういバランスの上に成り立つ個性”なのですね。  ヘッドフォンで聴くと親密になる音楽は、野外の大音量で再現すると一気に別物になってしまう。にもかかわらず、宇多田ヒカル自身の歌い方とフィジカルの能力はすぐには変えられない。すると、音源では“味”として楽しめていた不安定さが、致命的な瑕疵にまで増幅されてしまう。  もともと圧倒的な歌唱力よりソングライターとしての才覚が強みだったとはいえ、想像以上に頼りない歌声に戸惑ったことは否めません。

あえて“生歌至上主義”に疑問を投げかけたい

 元ちとせ、宇多田ヒカル。いずれも日本では実力派として認識されてきたアーティストですが、直近のパフォーマンスを見た限りでは、いまだにそう呼んでもよいものか迷いが生じてしまう。  名曲を聞きたいのはやまやまだけれど、どこかでがっかりする可能性も覚悟しなくてはならないのは残念です。  そこで、あえて“生歌至上主義”に疑問を投げかけたいのです。かつてほどに歌えないのならば、“口パク”にしてもよいのではないか。  もちろん、熱心なファンにとっては今現在の姿で歌ってくれれば嬉しいでしょう。けれども、大多数の部外者にとって優先されるべきは、ライブ感の希少性ではなく良い楽曲のクオリティが維持されることではないでしょうか。
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「生」で歌うことの弊害
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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