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藤井風、五輪映画のテーマ曲は“黒歴史”に?ファンの期待とは真逆の方向へ

心のモヤモヤを晴らすために「石を投げる」

 しかし欧米ほど過激でまとまった声ではなくとも、確かに排除の論理が働いている。その心持ちに大きな違いはありません。  強硬に中止や降板を求めることも、おせっかいで“風くん、やめたほうがいいよ”ということも、どちらも問題解決の本質を追求するより、納得できないことに対する心のモヤモヤを晴らしているに過ぎないからです。    かつてアメリカのオバマ元大統領は、キャンセルカルチャーについてこう語っていました。 <「それは現状を変え得る行動とは呼べない。ただあなたが石を投げることしかしないなら、大した成果は得られないだろう。そんなラクな方法では無理なのだ」>(The Telegraph『How cancel culture came to define 2021- and the casualties it left behind』2021年12月22日配信より 筆者訳) 「ラクな方法」で訴えることの根底に、孤立した多くの個人がSNSで自由に感情を表現するようになった環境が影響しているのかもしれません。 <気分を害したという感想が、単なる個々人の主観から同意しかねる人たちに向けられる武器へと変貌したのである>(The Telegraph同記事より)  数のつぶやきが集積されることで、あたかもムーブメントであるかのように錯覚させられる事態が生まれた、というわけですね。  アフリカ系アメリカ人の活動家でフェミニストのロレッタ・ロスも、キャンセルカルチャーに疑問を呈する一人です。本当に危険な人物を正当に批判するのではなく、人畜無害な人物をやり込めてはせせこましく得点を稼ぐようなものだとして、そうした活動にいそしむ人たちは、“自称・政治的な潔白さの番人”になってしまうと批判的な見方を示しています。(Vox『What is cancel culture? Why we can’t stop fighting about cancel culture』2020年8月25日配信より 筆者により要約、翻訳)

藤井風のファンは少し過保護な気も…

 もちろん、明白な犯罪行為によって脅威を与えたのならば、事情は異なります。けれども、河瀨直美監督の“腹蹴り”はどうだったのでしょう?  それがジャンボ鶴田のキッチンシンク(注1)ぐらいの威力だったのか、はたまた河瀨氏が主張するようにとっさに出てしまった行為だったのかで、見え方は変わります。スタッフが辞めた事実は変わらないとしても。(注1:プロレスの技。相手をロープに投げ飛ばして帰ってきたところを腹部に膝蹴りを入れる)  NHKの字幕問題は複雑ですが、東大入学式でのスピーチも、のちに東浩紀氏が <悪を糾弾することで満足するなと指摘しているだけだ。>(AERA dot. 4月26日配信)と改めて解説したように、議論の設定自体は間違いではありませんでした。  確かに、“河瀨直美、うげーっ”と思うことはあるのかもしれません。またそれをネット上で自由に表明することも、一定の範囲内ならば許される。ただし、それを理由に藤井風のイメージが損なわれる可能性にまで言及するのは、ちょっと過保護のような気もします。
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ファンが期待する選択をし続けられるわけではない
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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