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「とても濃密だったけど、とても苦しかった」五十嵐亮太が振り返る“メジャーに挑んだ3年間”の葛藤

ヤクルト時代から挫折続きの野球人生

サムライの言球 当初から、「自分はあれこれと希望を言えるような立場ではない」と自覚していたので、希望球団は特になかった。そして、’09年12月17日、ニューヨーク・メッツと2年総額300万ドル(約2億7000万円)で契約した。改めて五十嵐に問う。アメリカで通用する自信はあったのか?と。すると彼はつぶやくように意外な言葉を口にした。 「自信は、それまでも常にありませんでした……」  続く言葉を待った。 「……ヤクルト時代にも、ずっと結果が出なかったり、失敗を繰り返したり、(さすがにもうダメだな)と思うことばかり経験してきました。だから、アメリカに行くときも、そううまくいくわけがない、という思いだったし、未知数の部分のほうが大きかったんです。ストレートに関しては、アメリカでも速いほうだったので、うまくいけばそれなりにいけるかも?という思いはあったけど」

ストレートとスプリットだけでは通用しないメジャー

 当時の日本プロ野球最速タイ記録となる158kmを誇ったストレートには自信があった。問題は変化球だった。 「当時はストレートとスプリットの2つだけでした。でも、僕のスプリットはそれほど落差がなく、空振りをとれるボールではなかった。1年目はそれで臨んだけど、やっぱり、それだけではダメでしたね……」  本人の言葉にあるように、メッツでの1年目はすべて中継ぎで、34試合に登板し、1勝1敗2ホールド、防御率7.12という成績に終わった。納得できる数字ではなかった。 「開幕直後はそれなりのピッチングをしていたんですけど、4月に肉離れを起こし、故障者リスト入りしました。それで、開幕早々フロリダでリハビリすることになったんです」
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スタイルを変えなければ生き残れない
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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