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「とても濃密だったけど、とても苦しかった」五十嵐亮太が振り返る“メジャーに挑んだ3年間”の葛藤

緊張と興奮で記憶がない初登板

サムライの言球 5月には再びメジャーに昇格するものの、結果を残せずにマイナー落ち。その後は、メジャーとマイナーを行ったりきたりする日々が続いた。1年目を振り返っているとき、五十嵐は意外な言葉を口にした。 「メジャー初登板の記憶がまったくないんです。覚えているのは本拠地のシティ・フィールドのブルペンから、マウンドに向かうときの緊張感だけ。どんなピッチングをしたのか、相手バッターは誰なのかも覚えていないけど、ものすごい勢いで走ってマウンドに向かった記憶はあります。緊張と興奮の極致でしたね」  五十嵐がメジャーデビューした前年の’09年に開場したばかりのシティ・フィールドで、地元ファンの歓迎を受け、マウンドに上がった。待望のメジャーデビューを果たした瞬間だったが、特別な感慨はなかった。なぜなら、「メジャーのマウンドに上がること」が目標ではなく、あくまでも「メジャーで結果を残すこと」を見据えていたからだ。しかし、前述したように初年度は不本意な結果に終わった。

「甘えがあった」五十嵐を変えたMLB

(このままのスタイルでは通用しない……)  胸の内に不安が芽生える。課題は明白だった。必要なのは球種を増やすこと。変化球の精度を上げること。五十嵐は決断する。ダン・ワーセン投手コーチの助言によってカットボールの習得に励むことを決めた。 「1年目は苦しいときのほうが長かったし、(どうしてうまくいかないんだろう?)と考えてばかりでした。とにかく自分を変えたい、そんな思いでがむしゃらに取り組みました」  冒頭で五十嵐は「自分には甘えがあったし、狭い世界しか知らないから、何かを変える発想力もなかった」と語った。メジャー1年目にして、すでに「甘え」は消え去り、「何かを変える発想力」も芽生えていた。「狭い世界」から、大海に泳ぎ出た効果が早くも発揮されていた。しかしここから、五十嵐のさらなる苦闘の日々が始まることになったのだ――。〈後編に続く〉 【五十嵐亮太】 1979年、北海道生まれ。1997年ドラフト2位でヤクルトに入団。’09年、12月、メッツに移籍。’12年、ブルージェイズ、シーズン途中でヤンキースへ。’13年、ソフトバンク。’19年、ヤクルト。’20年に現役引退。日米通算906登板 撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
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