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「いい経験でしたよ、決していい思い出ではないけどね」五十嵐亮太が語った“メジャーリーグでの3年間”

メッツを解雇されてもアメリカに残った理由

サムライの言球’11年10月、メッツが五十嵐の解雇を発表する。しかし、ここからの行動は実にアクティブだ。同年オフに行われたドミニカ共和国でのウインターリーグに志願して参加。実戦を通じてカットボールを完全にマスターする。そして、12月にはピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ。 「2年目を終えて、メッツをやめたときに日本から数球団のオファーがありました。でも、そのまま日本に帰るのはちょっと空しい。もっとやり切りたいという思いがあったので、アメリカに残りました」 この時点で五十嵐は腹をくくった。たとえどんな結果になろうとも、「この1年を徹底的にやり切る」と決めたのだ。 「せっかくアメリカに来たからには、日本に戻る前にすべてのものを見よう。すべての経験をしよう。そう心に決めました」

再度の40人枠外に、「他球団を探してほしい」

勝負の3年目。スプリングキャンプ後、またしても40人枠から外れた。 「この年は変にアメリカナイズされていたというのか、自分の意思はしっかり伝えようと決めていたので、すぐに代理人に『他球団を探してほしい』と直訴しました。その結果、トロント(・ブルージェイズ)への移籍が決まりました」 ブルージェイズでは2試合に登板したものの、すぐにマイナーに降格する。 「このときも、代理人に『マイナーに行くなら、リリースしてほしい』と言い、チームを去ることを決めました」 すでにシーズンは開幕している。どこからもオファーがない可能性もあった。それでも、「何もせずに後悔したくない」と自ら退団し、新たな球団のオファーを待つ選択をする。 「すると、すぐに(ニューヨーク・)ヤンキースからオファーが来ました。クローザーの(マリアノ・)リベラが故障して、中継ぎ陣が手薄になったことで声がかかったんです」
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幕を閉じたアメリカ生活「苦しかったけれども…」
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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