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「いい経験でしたよ、決していい思い出ではないけどね」五十嵐亮太が語った“メジャーリーグでの3年間”

幕を閉じたアメリカ生活「苦しかったけれども…」

サムライの言球しかし、ここでも出番を与えられることはなかった。ヤンキース時代には2試合に登板した。古巣メッツとの「サブウェイシリーズ」では、先発・黒田博樹の後を受け、チームに勝利をもたらしたこともある。 「ヤンキースではほとんど出番がなかったけど、イチローさんも黒田さんもいたし、球場に行けばスター選手のデレク・ジーターにロビンソン・カノもいた。ほぼマイナー生活でしたけど、とても充実していた時期でした」 野球には真摯に取り組み続けた。このヤンキース時代に新球・ナックルカーブを習得する。持ち球のカーブに改良を加え、人さし指を立てるように投じることで、落差の大きいカーブをものにしたのだ。 こうして、五十嵐にとってのアメリカ生活は幕を閉じた。やるだけのことはやり切った。そんな自負があった。 「正直、3年目のシーズン途中に日本に帰ることもできました。けれども、最後までやり切った。僕にとっては苦しかったけれども、大切なのはその経験を後の人生に繫げること。そうでなければ、あの3年間の意味がなくなってしまうから」

ヤンキース時代に習得した新球で日本球界に復帰

そして、’13年からは福岡ソフトバンクホークスに入団する。アメリカで身につけたカットボールとナックルカーブを引っ提げ、以前とは異なるピッチングスタイルで、ここからソフトバンクで6年、古巣ヤクルトでさらに2年、合計23年、41歳まで現役を続けたのだった。 「アメリカに行かず、ヤクルトのままだったら、40歳過ぎまで現役はできなかったはずです。アメリカで学んだナックルカーブがあったからこそ、その後も現役を続けることができた。何でもやってみること、発想の幅を広げること。いずれもアメリカで学んだことでした」 ソフトバンク時代、当時の秋山幸二監督に「2軍で調整したいので1か月時間をください」と直訴したことがある。 「本来なら、選手がそんなことを言ってはいけないんです。でも、日本のボールに慣れるために、ナックルカーブを完全に自分のものとするために、調整の時間が必要だったから、直訴しました。自己主張の大切さを学んだのもアメリカでした」 五十嵐曰く「それはセルフィッシュな行動」だった。しかし、ときには自分の考えをきちんと主張することの大切さをアメリカで身につけた。 「アメリカでは本当に苦しい3年間でした。朝起きたときに、球場まで足が進まないほどでした。でも、あの経験をその後に繫げることができた。過去の失敗が生かされた。後悔だけで終わらせない。結果は残せなかったけど、僕にとっては本当に貴重な3年間でした」 最後に五十嵐は言った。 「いい経験でしたよ、決していい思い出ではないけどね」 自らの言葉をかみしめつつ、五十嵐は静かに笑った。 【五十嵐亮太】 1979年、北海道生まれ。1997年ドラフト2位でヤクルトに入団。’09年12月、メッツに移籍。’12年、ブルージェイズ、シーズン途中でヤンキースへ。’13年、ソフトバンク。’19年、ヤクルト。’20年に現役引退。日米通算906登板 撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
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