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「絶対にアメリカに行ったほうがいい」岡島秀樹がメジャー行きを意識した“新庄剛志の言葉”

真っ先に連絡が来たのはボストン・レッドソックス

サムライの言球

岡島秀樹氏

 家族を気遣うヒルマンのスタイル。そして、メジャー経験を持つ新庄の言葉。少しずつ、岡島の胸の内にメジャーリーグの存在が大きくなっていく。しかし、それはまだ曖昧模糊としたものだったが、やがて現実味を帯びてくる。  移籍1年目となる’06年、ファイターズは北海道移転後初となるリーグ制覇、そして日本一に輝いた。左のセットアッパーとして、岡島もチームに貢献した。そして、この年のオフ、満を持してFA宣言をした。国内外を問わず、自分の評価が聞きたかった。 「真っ先に連絡が来たのはボストン・レッドソックスでした。エージェントによると、条件もそんなに悪くないということだったので、家族に相談せず、独断で決めました」  それまで、まったくメジャーリーグに関心はなかった。かつてのチームメイトの松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースで活躍する姿をスポーツニュースで見る程度だった。  しばらくすると、期せずして松坂大輔のレッドソックス入りが決まった。世間の注目は松坂に集まっていた。 「松坂君は大スターですから、彼が表のヒーローなら、僕は陰のヒーローでいい。だから、メディアではいつも『僕は松坂君のシャドウ(影)です』と答えていました(笑)」  表のヒーローと陰のヒーローが同時に海を渡る。  ’07年、いよいよメジャーリーガーとしての日々が始まろうとしていた――。

渡米後、短期間で新魔球を習得

 日本からアメリカに渡ったピッチャーのほとんどが、「滑るボール」と「硬いマウンド」に悩まされる。しかし、幸いなことに岡島の場合は、いずれも難なくクリアする。 「ボールは確かに滑りました。日本で投げていたカーブが抜けてしまってコントロールが定まらない。だから思い切ってカーブは見せ球にして、新たにチェンジアップをマスターすることにしました」  日本で決め球にしていたカーブをあえて捨てる。それは、新天地で成功するために覚悟を決めた瞬間だった。  スプリングキャンプ直前、岡島はミネソタ・ツインズに在籍していたヨハン・サンタナに会いに行く。’04、’06年にサイ・ヤング賞を獲得したMLBを代表するサウスポーだ。 「たまたま彼も、僕と同じエージェントのクライアントだったので、そのツテをたどってチェンジアップを教わりに行きました。ものすごく気さくに教えてくれましたよ。僕の投球映像を見てもらったら、『日本でスプリットは投げていたのか?』と尋ねられたので、『イエス』と答えると、『これだけオーバースローなら絶対にチェンジアップも投げられる』と言ってもらいました」  日本では桑田真澄からチェンジアップを教わったものの、ものにすることはできなかった。しかし、このときサンタナから伝授されたのはすべての縫い目(シーム)に指をかける新しい握り方だった。 「すべてのシームに指をかけるから滑らないんです。グリップはしっかり固定して、指を少しずらせばシュート回転しながら落ちたり、真っすぐ落ちたりと自由自在でした」
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魔球「スプリットチェンジ」の誕生
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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